鏡に映した自分とまごうほどよく似た顔が醜く歪む。
怒りと悲しみと諦めの感情がどろりと混ざってどうにもならなくなったとき、きっと自分もこんな表情をするのだろうと、サガは他人事のようにぼんやりと思った。
「おまえはおまえの思い通りになる人形を捜せ。俺は御免だ」
無言でみつめるサガにそう辛辣な捨て台詞を残して、彼の双子の弟は家を飛び出していった。
八年程前のことだ。
普段は意識的に記憶に埋没させていたはずのあのときの光景は、近頃やたらとサガの脳裏に鮮明に甦る。
目覚まし時計が騒ぎ出すより先に目覚めてしまったのも、そのせいだ。
まだ夜も明けきらぬ薄暗い部屋の中、ゆっくりとベッドの上に上体を起こしたサガは、額にかぶさる前髪をわずらわしげにかき上げ深い溜息をついた。
忘れたと思っていた過去が今になって突然自分を苛み始めた理由など、考えるまでもなかった。
風邪で学校を休んでいたカミュが全快したとアイオロス経由で聞いたサガは、久々に家庭教師先の駅で電車を下りた。
こちらに足を向けたのは一週間ぶりだったが、既に懐かしい感じがすることに少し驚かされる。
いつの間にか、それだけここは自分にとって馴染み深い土地になっていたのだろう。
改札口を通り抜けたところでふと見上げると、先日営業停止処分を受けたレストランは無事営業を再開したようだった。
目に眩しいほどの照明に安堵しつつ、いつもと変わらぬ喧騒の中に足を踏み入れると、店内の一角、既に定位置となってしまった感のあるテーブルに、やはりカミュはいた。
勉強の邪魔をしないようできるだけ静かに近づいたつもりだったが、カミュは敏感に気配を察したらしく勢いよく立ち上がった。
高熱を発しサガの看病を受けたことを負い目に感じているのか、サガを見上げるその表情はひどく申し訳なさげだ。
「サガ、この間は……」
「もう体調の方はいいのかい?」
恐らくその後に続くのであろう謝罪の言葉を遮り、サガは優しく微笑んだ。
「あ、はい。もうすっかり」
「そう、よかった」
かるく手を上げカミュに着席を促すと、自分も向かい合って座る。
すかさず注文を取りに来たウェイトレスにコーヒーを頼み、サガはどこか落ち着かなげに視線をさまよわせるカミュを見た。
やはり病み上がりだからなのか、少しだけ顔の輪郭がすっきりとシャープになったような気がする。
そのせいか、目の前のカミュからは子供らしさが幾分姿を潜め、まるで一人前の大人と対峙しているような錯覚さえ抱かせられた。
小さく息を吐いたサガはさりげなくカミュから視線を外した。
カミュがいつまでもこのまま無垢な子供でいればいいと、ついそう思ってしまう利己的な自分からも目を背けてしまいたかったのだ。
看病がてら一日ゆっくりカミュと二人で過ごして以来、かつて自分に絶縁宣言を突きつけた弟をやたらと思い出してしまう理由は、ここにあった。
ただの子供だと認識していた少年が、心の底に闇を抱えながらもそれをひた隠し健気に振舞っていたことを知り、サガはカミュに強く惹かれた。
この少年が大人になっていく様を見ていたくなった。
今はただ不器用で生真面目なだけのこの少年が、無骨な原石が磨かれ輝きを放ちだすように花開く過程を、傍で見守っていたいと思った。
それは、いつしか恋となる感情の萌芽なのかもしれない。
しかし、その想いを自覚したことで、サガは新たな悩みに苛まれることとなったのだ。
かつて双子の弟が指摘したように、サガには親しければ親しくなるほど相手に干渉する傾向があった。
穏やかで優しい人だと、他人はサガを評してそう言うが、サガ自身は決してそうではないことを知っていた。
自分は、ただ心が冷たいというだけだ。
大して親しくもない相手などどうなっても構わないと思っているから、いつもにこやかに周囲を受け流しているだけのことだ。
そしてその反動なのか、心を許した極一部の人間に対してはサガはひどく親身になった。
持ち前の明晰な頭脳が幸いし、サガの忠告や意見は大抵適切な結果を導いていたから、初めは相手も素直に喜んで従ってくれる。
だが、そうして感謝され頼りにされることに幸せを感じるうちにいつしか拍車がかかってしまう自分を、サガは止めることができなかった。
自分でも気付かないうちに、最善の結果へ導くため相手の全てを思い通りにしようと、本人の選択権すら奪いがんじがらめにしてしまうのだ。
その最初の犠牲者となった弟は、過度の抑圧に耐えかねてサガの元から去っていった。
その過ちを再び繰り返すことを、サガはひどく恐れていた。
カミュが自分に寄せる尊敬と憧憬に満ちた眼差しは、かつて弟が自分に向けていたものとよく似ている。
自意識過剰のようだが人から好意を寄せられることには慣れていたから、このまま彼と一緒に時を重ねた場合、カミュが自分に抱く親愛の情が恋心に発展する蓋然性が高いことも、サガには容易に予測できた。
しかし、今はまだ盲目的にサガを慕うカミュもいつしか大人になり、サガの干渉に耐え切れなくなる日が来るかもしれない。
いや、カミュは決して愚鈍ではなかったから、その場合いずれサガの支配下から逃げ出したくなることは必至だろう。
そう思うと、ぞっとした。
大切な人が自分を見捨てて去っていくことになど、恐らく二度と耐えられはしない。
そんな苦痛を味わわされるのは、弟一人だけで充分だ。
年を経れば経るほどに臆病になり保身を図ろうとする自分の弱さを、サガは嫌というほどにわかっていた。
だから、これ以上この少年に深入りするのは止めようと、そう決心していた。
今なら、まだ引き返せる。
カミュへの弟に対するような好意を恋情に昇華させることなく、物分りのよい大人を演じ続けることができる。
あと半年弱、カミュの受験が終わり家庭教師の任が解かれるまで、それまで自分の感情をコントロールすればいいだけのことだ。
簡単なこと、だ。
「……サガ?」
カミュを前にして胸の内で改めてその決意を固めていたサガは、遠慮がちにかけられた訝しげな声に我に返った。
「ああ、すまない、考え事をしていた。なんだい、カミュ」
「志望校、ようやく決めました」
「そう、どこにしたんだい?」
少しはにかんだように微笑んだカミュは、小声ながらきっぱりとサガの問いかけに答えた。
「……え?」
思いがけなく告げられた馴染み深い名称に、サガは目を瞬かせた。
戸惑うサガに、カミュは自己弁護するように早口で続けた。
「今の成績じゃ絶対無理なのはわかってます。でも……」
一旦言葉を切ったカミュは、その無謀な決断に驚くサガを見るのが辛くなったのか、目を伏せた。
「……サガと同じ大学に行きたいんです」
サガという優れた人間を育んだ環境で自分も学生時代を過ごしてみたい。
サガは自分の憧れなのだと、そう呟いたカミュは俯いたままそれきり黙りこくった。
店内のざわめきから、何故か突然ここだけは隔絶されてしまったようだった。
気まずい沈黙が続く中、タイミングよく持ってこられたコーヒーを一口飲んだサガは、ようやく調子を取り戻したように苦笑を浮かべた。
「私は、君が思ってくれるほど人格者ではないよ」
暗に志望校の再考を促されていると思ったのか、カミュがわずかに身を硬くするのがテーブル越しに見てとれた。
「……でも、嬉しいね、君が後輩になってくれたら」
続く静かな声に、カミュは弾かれたように顔を上げる。
乱れた紅い髪を直そうともせず縋るような瞳を向けてくるカミュに、サガは殊更に優しく微笑みかけた。
「これから一層頑張らないといけないな。君も私も、ね」
「……はい!」
よほど反対されると怯えていたのか、途端に嬉しそうに顔を輝かせるカミュに、サガはわずかばかりの罪悪感を覚えた。
穏やかな微笑の下でサガが考えていることを知ったなら、カミュはサガに倣いたいなどという殊勝な願いを抱くことはないはずだった。
確かに現在のカミュの実力では、残念ながら合格確率はかなり低いと言わざるをえない。
カミュの希望を聞き客観的にそう判断したとき、サガは思ったのだ。
それならば、その低い可能性に自分の運を賭けてみようと。
カミュが無事合格したその暁には、傷つくことを恐れてめぐらせた臆病な殻から自分もまた一歩踏み出してみようと、そう決めたのだ。
ひどく他者に依存した身勝手な条件だが、一旦そう設定づけたなら感情を統制する自信はあったから、もはや悩む必要もない。
重苦しくたちこめていた暗雲が消えたように気が楽になるのを感じたサガは、改めてカミュに微笑んだ。
「では、快気祝いにと思ったのだが、激励の意味も込めて、君にこれを」
渡された小さな紙袋を、カミュは不思議そうに覗き込んだ。
「サガ、これは……?」
「また先日のようなことがあっては困るからね。私が君の家庭教師をしている間は、連絡が取れるように持っていてくれないか」
袋から取り出した携帯電話をびっくりしたように凝視していたカミュは、サガに向かって大きく頷いた。
「はい、ありがとうございます」
新しい玩具を手にした子供のように嬉しそうに笑ったカミュは、掌に収まる携帯電話をためつすがめつしているうちに何やら思いついたのか、紙袋の中をごそごそと漁りだす。
「サガ、連絡先教えてください。登録したいんです」
登録の仕方がわからないのか、取り出した分厚い取扱説明書を一頁目から丁寧に捲りだしたカミュに、サガはくすりと笑った。
この要領の悪さでは、彼が目当ての記載に辿りつくのは一体いつになることだろう。
「貸しなさい、私がやっておこう。君は勉強を続けて」
調べものが下手だという自覚はあったのだろう。
照れくさそうな笑みを浮かべたカミュは、その言葉に従うのが賢明と思ったらしく素直に携帯をサガに手渡した。
携帯と一緒に、カミュの指先がわずかにサガの手に触れる。
たったそれだけの接触に、泣きじゃくるカミュを慰めようと抱きしめたことをまざまざと思い出したサガは、気付かれないようにそっと唇を噛んだ。
几帳面すぎて効率の悪い勉強しかできないカミュの合格はやはり難しいだろうと思うと、胸が痛んだ。
それがカミュのために感じる痛みなのか、それとも自分のために味わっているものなのかは、あえて考えないようにした。
怒りと悲しみと諦めの感情がどろりと混ざってどうにもならなくなったとき、きっと自分もこんな表情をするのだろうと、サガは他人事のようにぼんやりと思った。
「おまえはおまえの思い通りになる人形を捜せ。俺は御免だ」
無言でみつめるサガにそう辛辣な捨て台詞を残して、彼の双子の弟は家を飛び出していった。
八年程前のことだ。
普段は意識的に記憶に埋没させていたはずのあのときの光景は、近頃やたらとサガの脳裏に鮮明に甦る。
目覚まし時計が騒ぎ出すより先に目覚めてしまったのも、そのせいだ。
まだ夜も明けきらぬ薄暗い部屋の中、ゆっくりとベッドの上に上体を起こしたサガは、額にかぶさる前髪をわずらわしげにかき上げ深い溜息をついた。
忘れたと思っていた過去が今になって突然自分を苛み始めた理由など、考えるまでもなかった。
風邪で学校を休んでいたカミュが全快したとアイオロス経由で聞いたサガは、久々に家庭教師先の駅で電車を下りた。
こちらに足を向けたのは一週間ぶりだったが、既に懐かしい感じがすることに少し驚かされる。
いつの間にか、それだけここは自分にとって馴染み深い土地になっていたのだろう。
改札口を通り抜けたところでふと見上げると、先日営業停止処分を受けたレストランは無事営業を再開したようだった。
目に眩しいほどの照明に安堵しつつ、いつもと変わらぬ喧騒の中に足を踏み入れると、店内の一角、既に定位置となってしまった感のあるテーブルに、やはりカミュはいた。
勉強の邪魔をしないようできるだけ静かに近づいたつもりだったが、カミュは敏感に気配を察したらしく勢いよく立ち上がった。
高熱を発しサガの看病を受けたことを負い目に感じているのか、サガを見上げるその表情はひどく申し訳なさげだ。
「サガ、この間は……」
「もう体調の方はいいのかい?」
恐らくその後に続くのであろう謝罪の言葉を遮り、サガは優しく微笑んだ。
「あ、はい。もうすっかり」
「そう、よかった」
かるく手を上げカミュに着席を促すと、自分も向かい合って座る。
すかさず注文を取りに来たウェイトレスにコーヒーを頼み、サガはどこか落ち着かなげに視線をさまよわせるカミュを見た。
やはり病み上がりだからなのか、少しだけ顔の輪郭がすっきりとシャープになったような気がする。
そのせいか、目の前のカミュからは子供らしさが幾分姿を潜め、まるで一人前の大人と対峙しているような錯覚さえ抱かせられた。
小さく息を吐いたサガはさりげなくカミュから視線を外した。
カミュがいつまでもこのまま無垢な子供でいればいいと、ついそう思ってしまう利己的な自分からも目を背けてしまいたかったのだ。
看病がてら一日ゆっくりカミュと二人で過ごして以来、かつて自分に絶縁宣言を突きつけた弟をやたらと思い出してしまう理由は、ここにあった。
ただの子供だと認識していた少年が、心の底に闇を抱えながらもそれをひた隠し健気に振舞っていたことを知り、サガはカミュに強く惹かれた。
この少年が大人になっていく様を見ていたくなった。
今はただ不器用で生真面目なだけのこの少年が、無骨な原石が磨かれ輝きを放ちだすように花開く過程を、傍で見守っていたいと思った。
それは、いつしか恋となる感情の萌芽なのかもしれない。
しかし、その想いを自覚したことで、サガは新たな悩みに苛まれることとなったのだ。
かつて双子の弟が指摘したように、サガには親しければ親しくなるほど相手に干渉する傾向があった。
穏やかで優しい人だと、他人はサガを評してそう言うが、サガ自身は決してそうではないことを知っていた。
自分は、ただ心が冷たいというだけだ。
大して親しくもない相手などどうなっても構わないと思っているから、いつもにこやかに周囲を受け流しているだけのことだ。
そしてその反動なのか、心を許した極一部の人間に対してはサガはひどく親身になった。
持ち前の明晰な頭脳が幸いし、サガの忠告や意見は大抵適切な結果を導いていたから、初めは相手も素直に喜んで従ってくれる。
だが、そうして感謝され頼りにされることに幸せを感じるうちにいつしか拍車がかかってしまう自分を、サガは止めることができなかった。
自分でも気付かないうちに、最善の結果へ導くため相手の全てを思い通りにしようと、本人の選択権すら奪いがんじがらめにしてしまうのだ。
その最初の犠牲者となった弟は、過度の抑圧に耐えかねてサガの元から去っていった。
その過ちを再び繰り返すことを、サガはひどく恐れていた。
カミュが自分に寄せる尊敬と憧憬に満ちた眼差しは、かつて弟が自分に向けていたものとよく似ている。
自意識過剰のようだが人から好意を寄せられることには慣れていたから、このまま彼と一緒に時を重ねた場合、カミュが自分に抱く親愛の情が恋心に発展する蓋然性が高いことも、サガには容易に予測できた。
しかし、今はまだ盲目的にサガを慕うカミュもいつしか大人になり、サガの干渉に耐え切れなくなる日が来るかもしれない。
いや、カミュは決して愚鈍ではなかったから、その場合いずれサガの支配下から逃げ出したくなることは必至だろう。
そう思うと、ぞっとした。
大切な人が自分を見捨てて去っていくことになど、恐らく二度と耐えられはしない。
そんな苦痛を味わわされるのは、弟一人だけで充分だ。
年を経れば経るほどに臆病になり保身を図ろうとする自分の弱さを、サガは嫌というほどにわかっていた。
だから、これ以上この少年に深入りするのは止めようと、そう決心していた。
今なら、まだ引き返せる。
カミュへの弟に対するような好意を恋情に昇華させることなく、物分りのよい大人を演じ続けることができる。
あと半年弱、カミュの受験が終わり家庭教師の任が解かれるまで、それまで自分の感情をコントロールすればいいだけのことだ。
簡単なこと、だ。
「……サガ?」
カミュを前にして胸の内で改めてその決意を固めていたサガは、遠慮がちにかけられた訝しげな声に我に返った。
「ああ、すまない、考え事をしていた。なんだい、カミュ」
「志望校、ようやく決めました」
「そう、どこにしたんだい?」
少しはにかんだように微笑んだカミュは、小声ながらきっぱりとサガの問いかけに答えた。
「……え?」
思いがけなく告げられた馴染み深い名称に、サガは目を瞬かせた。
戸惑うサガに、カミュは自己弁護するように早口で続けた。
「今の成績じゃ絶対無理なのはわかってます。でも……」
一旦言葉を切ったカミュは、その無謀な決断に驚くサガを見るのが辛くなったのか、目を伏せた。
「……サガと同じ大学に行きたいんです」
サガという優れた人間を育んだ環境で自分も学生時代を過ごしてみたい。
サガは自分の憧れなのだと、そう呟いたカミュは俯いたままそれきり黙りこくった。
店内のざわめきから、何故か突然ここだけは隔絶されてしまったようだった。
気まずい沈黙が続く中、タイミングよく持ってこられたコーヒーを一口飲んだサガは、ようやく調子を取り戻したように苦笑を浮かべた。
「私は、君が思ってくれるほど人格者ではないよ」
暗に志望校の再考を促されていると思ったのか、カミュがわずかに身を硬くするのがテーブル越しに見てとれた。
「……でも、嬉しいね、君が後輩になってくれたら」
続く静かな声に、カミュは弾かれたように顔を上げる。
乱れた紅い髪を直そうともせず縋るような瞳を向けてくるカミュに、サガは殊更に優しく微笑みかけた。
「これから一層頑張らないといけないな。君も私も、ね」
「……はい!」
よほど反対されると怯えていたのか、途端に嬉しそうに顔を輝かせるカミュに、サガはわずかばかりの罪悪感を覚えた。
穏やかな微笑の下でサガが考えていることを知ったなら、カミュはサガに倣いたいなどという殊勝な願いを抱くことはないはずだった。
確かに現在のカミュの実力では、残念ながら合格確率はかなり低いと言わざるをえない。
カミュの希望を聞き客観的にそう判断したとき、サガは思ったのだ。
それならば、その低い可能性に自分の運を賭けてみようと。
カミュが無事合格したその暁には、傷つくことを恐れてめぐらせた臆病な殻から自分もまた一歩踏み出してみようと、そう決めたのだ。
ひどく他者に依存した身勝手な条件だが、一旦そう設定づけたなら感情を統制する自信はあったから、もはや悩む必要もない。
重苦しくたちこめていた暗雲が消えたように気が楽になるのを感じたサガは、改めてカミュに微笑んだ。
「では、快気祝いにと思ったのだが、激励の意味も込めて、君にこれを」
渡された小さな紙袋を、カミュは不思議そうに覗き込んだ。
「サガ、これは……?」
「また先日のようなことがあっては困るからね。私が君の家庭教師をしている間は、連絡が取れるように持っていてくれないか」
袋から取り出した携帯電話をびっくりしたように凝視していたカミュは、サガに向かって大きく頷いた。
「はい、ありがとうございます」
新しい玩具を手にした子供のように嬉しそうに笑ったカミュは、掌に収まる携帯電話をためつすがめつしているうちに何やら思いついたのか、紙袋の中をごそごそと漁りだす。
「サガ、連絡先教えてください。登録したいんです」
登録の仕方がわからないのか、取り出した分厚い取扱説明書を一頁目から丁寧に捲りだしたカミュに、サガはくすりと笑った。
この要領の悪さでは、彼が目当ての記載に辿りつくのは一体いつになることだろう。
「貸しなさい、私がやっておこう。君は勉強を続けて」
調べものが下手だという自覚はあったのだろう。
照れくさそうな笑みを浮かべたカミュは、その言葉に従うのが賢明と思ったらしく素直に携帯をサガに手渡した。
携帯と一緒に、カミュの指先がわずかにサガの手に触れる。
たったそれだけの接触に、泣きじゃくるカミュを慰めようと抱きしめたことをまざまざと思い出したサガは、気付かれないようにそっと唇を噛んだ。
几帳面すぎて効率の悪い勉強しかできないカミュの合格はやはり難しいだろうと思うと、胸が痛んだ。
それがカミュのために感じる痛みなのか、それとも自分のために味わっているものなのかは、あえて考えないようにした。