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無憂宮
 カミュの家まで送っていくのが最善の策だ。
 それは充分にわかっていた。
 しかし、サガはカミュの住所はおろか連絡先も知らない。
 唯一の頼りだったアイオロスに連絡をとろうにも、どういうわけだか彼が電話に出る気配は一向になく、ようよう諦めたサガは次善の策としてカミュを自宅へ連れ帰り休ませることにした。
 通りかかったタクシーを停め、意識のないカミュを後部座席に押し込む。
 行き先を告げ車が走りだしたときには、一安心したような、それでいて何か重大な過ちを犯したような、ひどく複雑な心境に襲われていた。


 待ちわびた着信音を耳にしたサガは携帯に飛びついた。
 「悪い、サガ。酔っ払ってて着信あったの気付かんかった。何か用か?」
 いまだに酒が残っているのだろう、妙に浮かれたアイオロスの声がした。
 だが、今のサガには、それは救い主の御言葉だ。
 「ああ、緊急だ。実は……」
 ほっとしたサガは、かいつまんでこの数時間の出来事を伝えた。
 「まだ熱が下がらないのでな、しばらく動かせないとは思うが。カミュの家への連絡を頼めるか」
 「ああ、それは構わないが……どうもその必要はなさそうだぞ」
 他人事だと思ってか、アイオロスは随分と気楽なことを言う。
 暢気な友人の言葉に、サガは小さく溜息を吐いた。
 「そういう訳にはいかないだろう。高校生だぞ。子供の帰りが遅ければ、きっと親は心配する」
 「そのことなんだがな、サガ」
 アイオロスの声がわずかに改まったように聞こえた。
 訝しんだサガは、ついつられるように携帯電話を握り直した。
 「今、ちょうどカミュん家の前通りかかってんだが、留守みたいだわ。ついでに言うと、昨日も一昨日も。多分今日も帰ってこないんじゃないかな」
 「……それは一体どういう……?」
 「話すと長いぞ」
 警告するように前置きしたアイオロスはぽつぽつと語りだした。
 「カミュは子供のときにお袋さんを亡くしててな。今は父親と二人暮しなんだが、この人がネグレクトっての? どんだけ仕事が忙しいのか知らんが、ほとんど家にいないみたいなんだ」
 それでも小学生の頃は通いの家政婦がカミュの世話をしていたが、最近では完全に一人暮らしのようなものらしい。
 そう告げるアイオロスの言葉は、先日の「家を出たい」と暗い夢を語るように呟いたカミュをサガに思い出させた。
 あのとき、賢しげに一人暮らしの欠点を挙げ連ねた自分の愚かさを、サガは呪った。
 そのようなことなど、サガに指摘されるまでもなく、カミュは幼い頃から既に知り尽くしていたのだ。
 本来なら家族に愛され慈しまれるべき家庭において、カミュはずっと孤独を味わってきたのだろう。
 進学を機に家を出ようというのは、決して甘えた願望などではない。
 積年の孤独に耐え切れずもらした悲鳴だったのだ。
 「   だから、サガにカミュの家庭教師を頼んだのは、あいつに兄弟を作ってやりたかったってのもあるんだよ」
 少し申し訳なさげにアイオロスは言葉を結んだ。
 「……そうか」
 サガは淡々と呟いた。
 ただ事情を了承したと伝えることで精一杯で、アイオロスの願いを叶えてやれるか否かという意味では、さすがに即答はできなかった。


 何も知らなければよかった、とは思わない。
 ただ、カミュの決して恵まれているとは言えない家庭環境を知ってしまった以上、少しばかり対応が慎重になってしまうのは事実だった。
 病人の様子をみるために寝室の扉を開けようとして、一瞬とはいえ感じてしまう迷いに、サガはふと動きを止めた。
 が、すぐに、ここは自室なのに何を緊張することがあろうと苦笑混じりに思い返し、静かに扉を押し開く。
 サガのベッドを占拠した病人は、まだ少し苦しげな呼吸を繰り返していた。
 だが、汗を拭きがてら額に手を当ててみると、連れ帰った当初に比べ大分熱が下がっているようだった。
 よかった。
 「……あ……」
 額に置かれたサガの掌に起こされたのか、かすかにカミュは目を開けた。
 「……気付いたかい?」
 カミュを前にしてどんな態度を取ろうかなどと意識するまでもなく、自然と病人を気遣う優しい声になった。
 「サガ……?」
 まだ自分の置かれた状況を把握できないのか、とろりと焦点の合わない紅い瞳が訝しげに瞬く。
 サガはカミュを安心させるように穏やかに微笑んだ。
 「君は熱を出して倒れていたのでね、保護させてもらったよ。ああ、ここは私の家だ」
 「サガの家……」
 不思議そうに周囲に視線を彷徨わせたカミュは、ここに来てようやく事態を把握したらしい。
 「すみません……っ」
 カミュは弾かれるように飛び起きた。
 しかし、突然の姿勢の変化に、熱に侵された身体はついていくことができなかったらしい。
 目眩に襲われたようにぐらりと体勢を崩すカミュを、サガは慌てて支えてやった。
 「大丈夫かい、カミュ」
 「……はい。すみません、迷惑かけてしまって……」
 視線を合わせることもできないのか、俯いたカミュは消え入りそうな声で謝罪を繰り返す。
 「迷惑ではないけれど、あまり無茶をするのは感心しないね。あんな雨の中にいては、風邪もひく」
 「……すみません……」
 それ以外の言葉を忘れてしまったようにカミュは神妙にうな垂れる。
 サガは落ち込むカミュの気を引き立てるように笑ってみせた。
 「まあ、君は私を待っていてくれたのだから、あまり責めるわけにはいかないだろうがね」
 差し伸べられた救いの手に縋るように、カミュは熱に潤んだ瞳でサガを見上げた。
 「そうなんです。サガに今日は来てくださいって言ったのに、帰る訳にはいかないと思って……」
 食中毒患者を出したとかで、突然店が営業停止になってしまったのは誤算だったらしい。
 連絡を取る術もなく、ただその場でサガの訪れを待ち続けることしかできなかったのだろう。
 雨に濡れそぼり、それでもサガが来ることを信じて待っていたカミュの愚直なまでのいじらしさはなんだか忠犬のようで、サガの表情をふわりと和ませた。
 だが、そんなサガの微笑を、自己弁護に終始する自分に呆れているのだと、カミュは勘違いしたらしい。
 再び黙り込み悄然と俯くカミュに、サガは優しく微笑みかけた。
 「ともかく、今日はここでゆっくり休むといい。今何か温かいものでも持ってこよう。薬を飲む前に、何か胃に入れた方がいいからね」
 立ち上がったサガは、そう言いながら何の気なしにカミュの頭をかるく撫でてやった。
 その手が、止まる。
 「……カミュ?」
 掌の下で、かすかにカミュが震えている気がした。
 いや、気のせいではない。
 必死で声を押し殺しているようだが、俯くカミュからはすすり泣きめいた声さえ聞こえてきた。
 「カミュ、どうした?」
 突然泣き出したカミュに驚き声をかけると、彼はそろそろと頭を上げた。
 やはり、カミュは泣いていた。
 紅い瞳に溜まった雫が次から次へと頬に零れ落ちる。
 何故だかその泣き顔から目をそらすことができず、サガはじっとカミュをみつめた。
 「……初めて……」
 ぽつりと落とされた声は、聞き辛いほどに激しく揺らいでいた。
 サガは宥めるようにカミュの背を撫でながら優しく問いかけてやった。
 「何がだい?」
 「病気になって、誰かに看病してもらったの……」
 初めてなんです、と、泣き笑いのようにくしゃくしゃに顔を歪めるカミュに対してかけるべき言葉を、サガは何ひとつ思いつかなかった。
 「……そう」
 その代わり、ただそう一言だけ呟くと、サガはそっとカミュを胸に抱き寄せた。
 小さな子供のように泣きじゃくるカミュを、愛しいと思った。
 腕の中で肩を震わせる大きな子供が泣き止むまで、サガはそうしてずっとカミュを抱きしめていた。

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