無憂宮
 事前にアイオロスに聞いていた話では、家庭教師とはいえど積極的に教える必要はなく、ただカミュが質問してきたらそれに答えればよい、というのがサガの役割のはずだった。
 だから、サガはカミュの勉強の邪魔にならないよう隣のテーブルにつき、持参した本を読みながら彼が声をかけてくるのを待っていたのだが、小一時間ほど経過しても読書が邪魔されることはなかった。
 とはいえ、さりげなく横目で様子をうかがってみたところ、それは決して順調に勉強が捗っているからというわけではないらしい。
 一心に問題集を解くカミュは、時折困ったように眉をひそめ、ペンの先でかるく頭を叩く。
 行き詰まっているのは明白だ。
 なおも気付かないふりをして本に目を落としていると、カミュがちらりちらりとこちらを気にしているのがわかった。
 どうやら、質問はあるものの、読書中のサガに気兼ねして声をかけることもできないらしい。
 これでは一体何のためにサガはここにいるのだろう。
 これが仕事の場であったなら、相手のこの小心な態度はひどくサガを苛つかせたはずだ。
 しかし、さすがに十近くも年が離れていては、怒る気になれないどころか、その不器用さ加減が微笑ましくもなってくる。
 薄く笑ったサガは、わざとぱたんと音を立てて本を閉じた。
 その音につられてこちらを見上げたカミュに、そっと微笑みかける。
 「何か、わからないところはあるかい」
 人見知りの激しい相手には、こちらから歩み寄ってやればいい。
 立場的にこちらが優位にあるのなら、尚更だ。
 その思惑は当たったようで、ほっとしたような笑顔を浮かべたカミュはこれ幸いとばかりに飛びついてきた。
 「あ、はい、この問題なんですけど……」
 サガはカミュが差し示す問題にざっと目を走らせた。
 数学は、嫌いではない。
 難解なパズルを解くような知的興奮が味わえることを考えると、むしろ好きな部類に入るだろう。
 だが、苦手な人間には決してそうはいかないらしいということもわかる。
 カミュもそんな数学嫌いの一人なのだろう。
 不器用な性格はこんなところにも表れているようで、基本的知識は身についているものの、残念ながら少々応用力に欠けるらしい。
 「……どうやらここで詰まったみたいだね」
 少し困ったように頷くカミュは、順を追ったサガの説明が進むにつれ次第に目を輝かせた。
 そればかりか、理解度を量るため少し問題に手を加えて再度解かせてみると、難なく解いてみせる。
 サガはかるく目を見張った。
 飲み込みの早い子だ。
 説明したことをこれほど的確に反映してくれると、教えていても楽しいものだ。
 アイオロスに押し付けられた、初めは少々厄介だと思われたこの依頼が、何故だかひどく面白くなる予感がした。


 幾度か顔を合わせるうちに、カミュも次第に打ち解けた表情をみせてくれるようになっていた。
 徐々に信頼関係が築かれ始めたということだろう。
 交わされる話題も、勉強以外のことが占める割合が少しずつ増えてきた。
 そんな中、休憩がてらの雑談をしていたときのことだった。
 何の気なしに進学を希望する大学を尋ねると、カミュは少し困ったように笑った。
 「まだ何も決めていません」
 一旦言葉を切ったカミュは、あまりに素っ気無さすぎると思い直したのか、慌てたように付け加えた。
 「一人暮らしをしたいから、学費の安い国公立がいいっていうぐらいの希望はありますけど」
 家と学校ぐらいしか知らない高校生らしく、カミュも一人暮らしの自由気ままな生活に憧れているのだろう。
 もう何年も一人で生活しているサガにしてみれば、その未熟な発想は苦笑を誘うものでしかなかった。
 「確かに気楽だが、それほどいいものではないと思うがね」
 当然ながら家事は全て自分でしなくてはならないし、病気になっても誰かが看病してくれるというわけでもなく、寂しいと思うこともある。
 別段カミュの夢を壊すつもりはなかったが、現実に少し目を向けさせたくて、サガは一人暮らしの先輩らしく思いつくままにマイナス面を列挙した。
 そんなサガの悲観的な言葉を殊勝に聞いていたカミュは、やがてぽつりと呟いた。
 「それなら平気です。もう慣れてますから」
 「カミュ?」
 訝しげな視線を向けるサガには答えず、カミュは紅茶に口をつけた。
 ゆっくりと味わうように一口飲んだ後、再びソーサーにカップを戻したカミュは、じっとサガの瞳を見返した。
 「言い方を変えた方がいいですね。ただ、家を出たいだけなんです」
 紅い瞳にかすかに暗い光が宿っていた。
 妙にさめた表情が、目の前の少年を誰か別人のようにみせていた。
 言葉に迷ったサガは、無言でカミュをみつめた。
 自分に注がれるその気遣わしげな視線に気付いたのか、カミュは矛先をそらそうとでもするようににこりと笑った。
 「……続き、やりますね。今度の模試はサガの期待に応えないと」
 再び眼鏡をかけたカミュは、普段と変わらない真面目そうな高校生の顔を取り戻した。
 しかし、サガの目には、黙々と問題を解き続けるその姿は、それ以上の質問を拒んでいるようにしかみえなかった。


 朝から降り始めた雨は、夜になりますます強さを増していた。
 さすがにこんな豪雨に見舞われては、カミュも今日は大人しく家で勉強しているだろう。
 そう思いつつも、サガの足は件の店に向かっていた。
 珍しく仕事が早く片付いたせいもある。
 だが、今日は模試の結果が返ってくるとかで、できたら来て欲しいと、先週カミュに遠慮がちに頼まれたのが最大の理由だった。
 ボランティアで勉強をみてもらっているということを負い目に感じているのか、カミュの方から何かを頼むということは滅多になかったから、できる限りその希望を叶えてやろうと、サガはそう思ったのだ。
 もしも店にカミュがいなければ、そのまま帰ればいい。
 帰宅時間がいつも通りになるだけのことだ。
 とはいえ、この雨の中出歩かねばならないことを考えると、今までカミュの連絡先を聞かなかったことをサガは少しばかり後悔していた。
 最近の学生には珍しく、カミュは携帯電話を持っていない。
 必要があればアイオロスに自宅の電話番号を尋ねればいいと暢気に構えていたのは、用意周到な自分にしては失策だったと思う。
 次に会ったときには念のため連絡先を確認しておこうと心に決めつつ、改札口を通り抜けたサガは目当ての店の方向を何気なく見遣った。
 思わず足を止めたサガはわずかに目を見張った。
 普段煌々と照明に照らされている店が、今日はどういうわけだかぽっかりと闇に沈んでいたのだ。
 どこもかしこも明るい繁華街の中そこだけが暗いと、見る人をひどく不安な気分にさせる。
 原始的な闇への恐怖を呼び覚まされるような錯覚に襲われたサガは、胸騒ぎを覚えつつ叩きつけるような雨の中足早に店へと向かった。
 予感が、的中した。
 年中無休の看板が偽りであったかのように固く閉ざされた扉の前に、鞄を抱えうなだれたカミュは座り込んでいた。
 その表情は垂れ下がる紅い髪に隠され窺い知ることができない。
 「カミュ?」
 呼びかけたが、返事はなかった。
 眠っているのかと、揺り起こそうとして肩にかけた手が止まる。
 よほど長い時間風雨に晒されていたのか、制服は冷たく濡れそぼっていた。
 「カミュ、どうした?」
 慌てたサガは、カミュの髪をかきわけると頬にかるく手を触れた。
 こちらは逆に驚くほど熱い。
 雨音に消されそうなほど微弱で苦しげな息遣いが、サガの耳に何か不吉な予兆のように届いた。

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