無憂宮
願いごと


 誰もいない部屋に帰る寂しさには、まだ慣れなかった。
 玄関灯を点けたまま外出してしまうのは、真っ暗な部屋に一人で帰るのが嫌だったからだ。
 「……ただいま」
 小さく呟いた言葉には、当然のことながら返事はなく、それが一層辛かった。
 同棲していた恋人が突然この世を去ってから、現実感もないまま、ただ時間だけが過ぎていく。
 本もCDもグラスも、サガが好きだった物は何一つ変わらずあるのに、その持ち主だけがここにはいない。
 そんな状況を信じられないまま、空虚な日々を送っていた。
 そうやって遺品に囲まれた家に閉じこもるカミュを心配したのだろう。
 今日の久々の外出は、友人たちから半強制的に呼び出されたものだった。
 友人はカミュの顔をみると、「まさに猫の手も借りたかったのですよ」と、失礼な言で迎えてくれた。
 数ヶ月前、突然の訃報に悲嘆にくれるカミュを慰めてくれた人物とも思えないそっけない物言いは、彼らなりの優しさの表れだ。
 だから、カミュも久々に表情筋を笑顔の形に動かすことができたのである。
 カミュに命じられた仕事は、彼らの経営する骨董屋の手伝いだった。
 ムウとシャカが骨董市に出品するという妖しげな道具類を整理し、磨きをかける。
 骨董の知識などないカミュは、言われるままに手を動かしていただけなのだが、そんな単純作業でも身体を動かすというのはいいことなのかもしれない。
 今はもういないサガのことを考える暇もなかったのだから。
 肉体的な疲労に包まれ、今夜は睡眠薬に頼らなくても、よく眠ることができそうだ。
 小さな欠伸と共に、重い鞄を床に置こうとしたカミュは、ふと手を止めた。
 別れ際にアルバイト代と称して、およそ売れる見込みのないオブジェを押し付けられたことを思い出したのだ。
 鞄の中に手を差し入れ、取り出したそれを、しげしげとみつめる。
 それは黒金からなる蠍のオブジェだった。
 重量といい手の込んだ細工といい、ひょっとしたら値の張るものなのかもしれないが、ムウに言わせると、長い間買い手がつかないのだという。
 その申し出を断るのは、カミュの身を案じてくれる二人の好意も拒絶するような気がして、素直に受け取ってきたのだった。
 ただ、埃を被ったそのオブジェは、あまりに歴史を感じさせ過ぎる。
 カミュはとりあえず表層の汚れを洗い流そうと、洗面所に行き蛇口をひねった。
 勢いよく放出された水が、蠍に向かって注がれる。
 と、そのとき。
 「……何すんだよっ! 水責めかっ!」
 声がした。
 カミュは瞳を瞬かせた。
 無為な日々を送り続けた結果、とうとう幻聴が聞こえるようになったのだろうか。
 茫然とするカミュの目の前で、蠍のオブジェが突如靄に包まれだした。
 やがてその靄の中に浮かぶのは蠍の姿だけではなくなった。
 蠍の他に、影がもう一体。
 靄が晴れた。
 カミュの目の前には、黒金の蠍。
 そして、その傍らには、小人がいた。
 掌くらいの大きさにもかかわらず、妙に傲慢に腕を組んで見上げてくる金髪の小人。


 これが、ミロとの出会いだった。

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