小さな侵入者に指示されたとおり小人を掌に乗せ、カミュは放心状態のまま居間に戻った。
あまりに異様な事態に直面すると、脳の処理能力は破綻をきたし、一時的に思考は停止するらしい。
あのときもそうだった。
サガがこの世を去ったときも。
何も考えられず、人に言われるままに諾々と行動している今の状況は、あのときと同じだ。
カミュはきゅっと唇を噛んだ。
胸の奥が締め付けられるように苦しいのは、厳重に鍵をかけ封じ込めていた記憶が蘇ろうとしているからだ。
まだ、早い。
まだ、サガの死を受け入れられるほど、自分の傷は癒えていない。
まだ。
開きかけた記憶の扉を再び閉ざそうと、カミュは意識を無理やり外へ向けることにした。
都合のよいことに、目を引くに足るものが眼前にあるのだ。
テーブル上をちょこまかと動く見慣れない生き物に、カミュはじっと視線を注いだ。
小人は、濡れそぼった仔犬のように、ふるふると頭を揺すり水気を払っていた。
長い金髪から飛んだ水飛沫が、カミュの頬を濡らす。
冷たい。
頬を拭った指先を見ると、水滴に濡れ光っていた。
やはり信じられないのだが、目の前に小人がいるのはどうやら現実、らしい。
「あ、悪い。水、かかった?」
「……いや」
あっけらかんと問いかける笑顔があまりに楽しげで、カミュはつい釣り込まれて返事をしていた。
言葉が返ってきたことに満足したか、小人はにっこり笑うと、芝居がかった仕草で一礼した。
「俺はミロ。あんたは?」
「……カミュだけど」
至って普通の会話だ。
初対面にしては少々不躾だというきらいはあるものの、ごくありふれた会話だ。
相手が、小人でさえなければ。
いまだに事態が把握できず茫然としたカミュを、小人は精一杯背伸びをして見上げてきた。
「じゃあ、カミュ。早速だけど、なんか願いごとない?」
「願いごと?」
「そう、叶えてあげるから」
日頃、無欲と言われるカミュのことだ。
唐突に言われても、願いごとなどそうそうみつかるものでもない。
その結果、呆けたように小人の言葉を復唱するしかないカミュの態度を誤解したらしく、小人は少し気分を害したように口を尖らせた。
「安心しろって。俺は立派な魔法使いなんだから」
これでもカミュは科学技術が支配する文明社会の一端に息づく身である。
小人を、しかも魔法使いとやらを前にして、安心しろと言う方が無理な話だと思うのだが。
しかし、この小人は、全くそんな考えには及ばないらしい。
憮然とした表情には、プライドを傷つけられた不満がありありと窺えるのだ。
カミュはくすりと笑った。
面白い。
ちょうど現実世界には飽き飽きしていたところだ。
とことんまでこの小人に付き合ってみよう。
覚悟を決めると、鬱屈していた気分がみるみる一掃されていくのがわかった。
頭の中にどんよりと立ち込めていた霧も晴れ、久々に働き始めたニューロンが漣のように活動再開を伝達していく。
カミュは小人に微笑みかけた。
「なぜ私の願いを叶えてくれるんだ?」
ようやく前向きな反応を示したカミュに、たちまち小人の機嫌は直ったようだ。
蒼い瞳をくるりときらめかせ、小人は陽気な笑顔をカミュに向けた。
「そりゃ、あんたが蠍像を……。ああっ、そういえば、あんた、磨いてないっ。水かけるなんて、何てことするんだっ!」
「……すまない」
血相を変えて叫ぶ小人に、意味もわからないものの、律儀に謝っている自分に苦笑を一つ。
そんなカミュにも構わず、小人の叱責はさらに続いた。
「普通手入れっていったら、布か砂で磨くもんだろ。水かけるなんて……。あー、もったいない。そんなんで砂漠に生きられるかよっ!」
……砂漠に生きるつもりはないのだが。
そう言いさした言葉は、音になる前に舌先で止まった。
小人の言葉をゆっくりと脳内で反芻する。
さっき、彼は何と言った?
願いを叶えるのは、蠍を磨いたからだと言おうとしたのではなかったか。
カミュは小人を凝視した。
ぎゃあぎゃあと小さな体にそぐわない音量で糾弾を続ける声には耳を素通りさせ、注意深くその姿を観察する。
白絹に金糸の凝った刺繍が施され、幾重にも折り重ねられたドレープが風をはらむ、中東独特の衣装。
幼い頃に読んだ絵本の挿絵が、ふっと脳裏をよぎった。
目の前の小人とよく似た装束をまとっていたのは……。
「アラビアンナイト……?」
そう、今のカミュの状況は、ランプの精を呼び出したアラジンと同じなのだ。
違いは、磨いたのがランプではなく蠍像だったということと、願いを叶えてくれるというのがあまり頼りにならなそうな小人だということだけ。
驚きに思わず漏れたカミュの呟きは、決して大きいものではなかった。
しかし、けたたましく続く小人の怒声を遮るには十分だったようだ。
弾劾の言葉を述べかけたまま大口を開けて固まっていた小人は、やがてがっくりと肩を落とした。
「……あんた、人の話を聞かないって、よく言われない?」
「……すまない」
「あと、謝ってばっかとか」
「……すまない」
思い当たる節があり過ぎて、次第に声が小さくなっていくカミュが可笑しいのか、小人はすぐにむくれた表情を引っ込め笑みをみせた。
「まあ、いいや。説明するのが楽になったし。魔法のランプ、だっけ? あれを真似たんだよね、俺の師匠」
小人の主張するところによると、彼は“ちょっとばかり”悪戯が過ぎたのが原因で、師の魔術師の逆鱗に触れ、蠍像に封印されてしまったのだという。
そして、その封印を解くためには、人のために役立つことが必要らしい。
善意で蠍像の手入れをした人間の願いを叶えてやる、ということが。
「それも100人分の願いを叶えてやんなきゃいけないんだ。ああ、あんたで97人目かな」
小人は平然とうそぶくが、いったいどのような悪事を働けば、そんなお仕置きを受けるというのだろう。
訊くのも怖かったが、小人は悪びれもせずにけろりとカミュを見上げてきた。
「で、あんたの願いごとは?」
あまりに異様な事態に直面すると、脳の処理能力は破綻をきたし、一時的に思考は停止するらしい。
あのときもそうだった。
サガがこの世を去ったときも。
何も考えられず、人に言われるままに諾々と行動している今の状況は、あのときと同じだ。
カミュはきゅっと唇を噛んだ。
胸の奥が締め付けられるように苦しいのは、厳重に鍵をかけ封じ込めていた記憶が蘇ろうとしているからだ。
まだ、早い。
まだ、サガの死を受け入れられるほど、自分の傷は癒えていない。
まだ。
開きかけた記憶の扉を再び閉ざそうと、カミュは意識を無理やり外へ向けることにした。
都合のよいことに、目を引くに足るものが眼前にあるのだ。
テーブル上をちょこまかと動く見慣れない生き物に、カミュはじっと視線を注いだ。
小人は、濡れそぼった仔犬のように、ふるふると頭を揺すり水気を払っていた。
長い金髪から飛んだ水飛沫が、カミュの頬を濡らす。
冷たい。
頬を拭った指先を見ると、水滴に濡れ光っていた。
やはり信じられないのだが、目の前に小人がいるのはどうやら現実、らしい。
「あ、悪い。水、かかった?」
「……いや」
あっけらかんと問いかける笑顔があまりに楽しげで、カミュはつい釣り込まれて返事をしていた。
言葉が返ってきたことに満足したか、小人はにっこり笑うと、芝居がかった仕草で一礼した。
「俺はミロ。あんたは?」
「……カミュだけど」
至って普通の会話だ。
初対面にしては少々不躾だというきらいはあるものの、ごくありふれた会話だ。
相手が、小人でさえなければ。
いまだに事態が把握できず茫然としたカミュを、小人は精一杯背伸びをして見上げてきた。
「じゃあ、カミュ。早速だけど、なんか願いごとない?」
「願いごと?」
「そう、叶えてあげるから」
日頃、無欲と言われるカミュのことだ。
唐突に言われても、願いごとなどそうそうみつかるものでもない。
その結果、呆けたように小人の言葉を復唱するしかないカミュの態度を誤解したらしく、小人は少し気分を害したように口を尖らせた。
「安心しろって。俺は立派な魔法使いなんだから」
これでもカミュは科学技術が支配する文明社会の一端に息づく身である。
小人を、しかも魔法使いとやらを前にして、安心しろと言う方が無理な話だと思うのだが。
しかし、この小人は、全くそんな考えには及ばないらしい。
憮然とした表情には、プライドを傷つけられた不満がありありと窺えるのだ。
カミュはくすりと笑った。
面白い。
ちょうど現実世界には飽き飽きしていたところだ。
とことんまでこの小人に付き合ってみよう。
覚悟を決めると、鬱屈していた気分がみるみる一掃されていくのがわかった。
頭の中にどんよりと立ち込めていた霧も晴れ、久々に働き始めたニューロンが漣のように活動再開を伝達していく。
カミュは小人に微笑みかけた。
「なぜ私の願いを叶えてくれるんだ?」
ようやく前向きな反応を示したカミュに、たちまち小人の機嫌は直ったようだ。
蒼い瞳をくるりときらめかせ、小人は陽気な笑顔をカミュに向けた。
「そりゃ、あんたが蠍像を……。ああっ、そういえば、あんた、磨いてないっ。水かけるなんて、何てことするんだっ!」
「……すまない」
血相を変えて叫ぶ小人に、意味もわからないものの、律儀に謝っている自分に苦笑を一つ。
そんなカミュにも構わず、小人の叱責はさらに続いた。
「普通手入れっていったら、布か砂で磨くもんだろ。水かけるなんて……。あー、もったいない。そんなんで砂漠に生きられるかよっ!」
……砂漠に生きるつもりはないのだが。
そう言いさした言葉は、音になる前に舌先で止まった。
小人の言葉をゆっくりと脳内で反芻する。
さっき、彼は何と言った?
願いを叶えるのは、蠍を磨いたからだと言おうとしたのではなかったか。
カミュは小人を凝視した。
ぎゃあぎゃあと小さな体にそぐわない音量で糾弾を続ける声には耳を素通りさせ、注意深くその姿を観察する。
白絹に金糸の凝った刺繍が施され、幾重にも折り重ねられたドレープが風をはらむ、中東独特の衣装。
幼い頃に読んだ絵本の挿絵が、ふっと脳裏をよぎった。
目の前の小人とよく似た装束をまとっていたのは……。
「アラビアンナイト……?」
そう、今のカミュの状況は、ランプの精を呼び出したアラジンと同じなのだ。
違いは、磨いたのがランプではなく蠍像だったということと、願いを叶えてくれるというのがあまり頼りにならなそうな小人だということだけ。
驚きに思わず漏れたカミュの呟きは、決して大きいものではなかった。
しかし、けたたましく続く小人の怒声を遮るには十分だったようだ。
弾劾の言葉を述べかけたまま大口を開けて固まっていた小人は、やがてがっくりと肩を落とした。
「……あんた、人の話を聞かないって、よく言われない?」
「……すまない」
「あと、謝ってばっかとか」
「……すまない」
思い当たる節があり過ぎて、次第に声が小さくなっていくカミュが可笑しいのか、小人はすぐにむくれた表情を引っ込め笑みをみせた。
「まあ、いいや。説明するのが楽になったし。魔法のランプ、だっけ? あれを真似たんだよね、俺の師匠」
小人の主張するところによると、彼は“ちょっとばかり”悪戯が過ぎたのが原因で、師の魔術師の逆鱗に触れ、蠍像に封印されてしまったのだという。
そして、その封印を解くためには、人のために役立つことが必要らしい。
善意で蠍像の手入れをした人間の願いを叶えてやる、ということが。
「それも100人分の願いを叶えてやんなきゃいけないんだ。ああ、あんたで97人目かな」
小人は平然とうそぶくが、いったいどのような悪事を働けば、そんなお仕置きを受けるというのだろう。
訊くのも怖かったが、小人は悪びれもせずにけろりとカミュを見上げてきた。
「で、あんたの願いごとは?」