無憂宮
 骨董屋を辞したカミュは、ともすれば浮き立ちそうになる足を懸命に宥めながら帰路についていた。
 途中、自宅以外でカミュが落ち着ける数少ない場所のひとつである書店の前で立ち止ると、わずかな躊躇いの後、店内に足を踏み入れる。
 先程友人たちに手渡してきた本の発売予定日は、昨日だった。
 書店に自分の訳した本が並ぶという状況がいまだに信じられず、昨日はどうにも落ち着かなかったのだが、楽しい会話の名残で気分が高揚している今なら、自分の目で確かめてみることが出来る気がした。
 通い慣れた書店だけに、新刊がどこに並べられるかくらい苦も無くわかる。
 緊張に高鳴りだした鼓動を落ち着かせるべく密かに深呼吸を繰り返しつつ、カミュは目当ての一角に辿りついた。
 平積みにされ整然と並ぶ、頁を繰るのが惜しくなるほどに真新しさの際立つ本の数々。
 その片隅にあるもうすっかり目に馴染んでしまった装丁が、探すまでもなくカミュの目に飛び込んできた。
 優しく長閑な筆致のエッセイに相応しい繊細な淡彩画に彩られた表紙には、著者の名と並び小さく訳者の名も記されていた。
 自分の、名だ。
 先だって出版社でシュラに見せてもらったものと同じはずなのだが、改めて書店に並んだ状態で見ると、何かどこかが違う特別な本のような気がした。
 誇らしさと照れ臭さについ綻びそうになる表情をなんとか引き締めながら、カミュはその一冊にそろりと手を伸ばした。
 と、隣からぐいと伸びてきた手が、カミュよりも先にその本を取り上げる。
 「あ、すみませ……」
 言いさして、カミュは息を呑んだ。
 心拍数がこれ以上高くはなりえないという程の数値を瞬時に叩き出す。
 本を手にした腕の主に吸い寄せられた視線が、外せなくなっていた。
 「なあ、この本、おもしろいの?」
 傍らでぱらぱらと頁をめくる男は、豪奢に波打つ黄金の髪と悪戯に輝く蒼い瞳の持ち主だった。
 カミュの記憶の中から実体化して飛び出してきたような、彼とよく似た、男。
 言葉を失いただ愕然と瞳を見張ることしかできないカミュに、男はにやりと笑いかける。
 「久しぶり、カミュ」
 カミュはこくりと喉を鳴らした。
 よく似た他人という可能性が、その一言にがらがらと音を立てて崩れていくのがわかった。
 「……ミ……ロ……? どうして……?」
 「いや、おもしろいんなら買おうかと思って」
 「……そうじゃなくて」
 律儀にからかわれるカミュに、本を書架に戻したミロはくつくつと楽しそうに笑った。
 「わかってるって。何で俺が人間に戻ってるのかって聞きたいんだろ」
 あの二人のおかげなんだ、と、ミロは少し照れたように鼻の頭を擦った。
 蠍像をカミュから返されたムウとシャカは、ミロを人間に戻すため、像を人手に渡しては取り戻すという行為を密かに繰り返していたのだという。
 ミロが人間に戻るためには、あと三つの願いを叶えることが必要だった。
 小人の存在など何も知らずに像を磨く者がいれば、ミロはその願いを叶えるために外に現れることができる。
 それならば、できるだけ多くの人が像を手にする機会を作ればいい。
 そうすれば、願いを叶える潜在的機会も格段に増え、ミロが百の願いを叶え封印を解く日も近づくはずだった。
 地道だが最も確実な方法を採った彼らの選択は、どうやら間違ってはいなかったようだ。
 その答えが、今、カミュの目の前に立っている。
 「……というわけ。意外といい奴らだな、あいつら」
 とくとくと狂おしいほどに激しく鳴り続ける心臓を落ち着けようと無駄な努力を重ねながら、カミュはこれまでのムウとシャカの言動を思い返していた。
 いつも超然とした彼らに変わった様子は見受けられず、二人が密かにそんな画策を廻らしていたことになど、少しも気づかなかった。
 いや、一度だけ、彼らが思わせぶりな素振りを見せたことがあった。
 それも、つい先程。
 「……ひょっとして、ムウたちが言ってた祝いの品って……」
 骨董屋での会話が甦る。
 微笑むだけで詳しく語ろうとしないのは、今更ながら彼らが何か謀を企てていることを如実に表していたように思われた。
 そして、彼らの言う贈り物がミロのことならば、返品を強固に断わったシャカの言葉の真意にも充分納得がいくのだ。
 「もしかして、そのプレゼントって俺のこと? あ、じゃ、リボンとかつけた方がいい?」
 「……いや、いらないから」
 「いらない……?」
 カミュの言葉に、ミロはわずかに不服そうに眉を顰めた。
 「ふうん。だったら、俺、また消えるわ」
 かつてのカミュの願いごとを、ミロはさらりと口にする。
 幾度となく後悔に襲われた願い。
 自分がどうしたいのか、何を望んでいるのか。
 本当はわかっていたはずなのにそれを認めるのが怖くて、言い訳じみた理屈を捏ね上げてミロから逃れた。
 自分の犯した取り返しのつかない過ちに気づいたのは、彼がいなくなってしばらくしてからだった。
 カミュは、ミロに、ただ傍に居て欲しかったのだ。
 サガの代わりなどではなく、愛玩物としてではなく、ミロという存在そのものを、カミュは焦がれるほどに切望していた。
 彼を失って初めて気づいた、秘めたる想い。
 ささやかなプライドも亡き恋人への思慕の念も、とりあえず今だけは脇へ避けておこうと、カミュは咄嗟に決意した。
 自らのふがいなさを責め枕を涙に濡らす日々を繰り返すのは、もう嫌だ。
 「待て、違うんだ!」
 いらないのはリボンであって、ミロではない。
 慌てて弁明しかけたカミュは、そこでようやくミロが意味ありげな笑みを浮かべていることに気づいた。
 どうやら嵌められた、らしい。
 ミロの意図を悟るや否や、カミュの頬にさっと血が上る。
 そんなカミュのめまぐるしい表情の変化を、ミロは嬉しそうに幸せそうにじっと見守っていた。
 「いい加減、認める気になった?」
 「……何を?」
 見慣れた小人の姿ではないから、気圧されてしまうのだろうか。
 会話の主導権をあっけなく奪われたことが悔しくて精一杯虚勢を張るカミュに、ミロは蠱惑的に片目を瞑ってみせた。
 「カミュさ、俺のこと、好きだろ?」
 あまりに自信に満ちた、幼い子供が口にするような率直すぎる言葉が、カミュの胸に刺さった。
 全ては、これほどまでに単純なことだったのだ。
 滑稽なまでに必死な理論武装で誤魔化してきた感情は、たった一言に集約された。
 カミュは一つ息を吐くと、何も言わずに瞳を伏せた。
 やがて、提示された心地よいその一言に操られるように、ミロと視線を合わせないまま小さく頷く。
 それはよくよく注意していなければ見逃してしまうほどにささやかな反応だったが、無論ミロが看過するはずもない。
 雲間から陽が差すように、ミロの表情はみるみる満足気に輝いた。
 「しばらく会わないうちに随分素直になったな、カミュ」
 「……ミロは、可愛げがなくなったな」
 「ああ、人間に戻ったからな。可愛いっていうよりも、どっちかって言うと格好よくなっただろ」
 厭味が虚しくなるほどにしれっと受け流したミロは、次いで悪戯っぽく口の端を持ち上げると、カミュの両肩に手を置きじっと瞳を覗きこんできた。
 「……何?」
 懐かしい、綺麗な蒼い瞳に吸い込まれそうになる。
 何故だかどうしようもなく怖気づく自分を悟られまいと、カミュはぐっと瞳に力を込め絡みつく視線を跳ね除けようとした。
 が、百戦錬磨のミロには、カミュの健気な威容など何の効力もないらしい。
 両の瞳にカミュを映しこんだまま、ミロは熱っぽく囁いた。
 「カミュ、キスしよう。俺が人間に戻ったのと二人の再会を祝して、さ」
 「……ここで?」
 「そう。ここで、今すぐ」
 予期せぬ懇請に、カミュはちらりと慌しく周囲に視線を走らせた。
 店内には客が皆無というわけではなく、通路の端々に目ぼしい本を物色している人の姿が散見された。
 ここは間違いようもなく、公衆の面前、だ。
 思わず溜息が漏れた。
 小人生活が長すぎて羞恥心や道徳を蠍像の中に置き忘れて来てしまったらしいミロには、人間界の常識をじっくりと覚え直してもらう必要がありそうだった。
 やんわりと拒絶の意を伝えようと、カミュはかすかに顔を引きつらせながらも強いて微笑を作ってみせた。
 「この本屋は、品揃えが良くて気に入っているんだ」
 「だから?」
 訝しげに瞳を瞬かせるミロに、折角の配慮が通じず焦れたカミュは昂りそうになる声を必死で抑えつつ言い放った。
 「そんなことしたら、恥ずかしくてもう二度とここには来られないだろう!」
 「いいじゃん、別に。なんなら、もっといい本屋に連れてってやるよ」
 魔法の絨毯でひとっ飛び、と、ミロは片手をひらひらと動かしおどけてみせる。
 そして、本気とも冗談ともつかない不思議な光をたたえた蒼い瞳で、カミュをまっすぐにみつめた。
 「何百年、俺はあんたを待ってたと思うんだ? もう一瞬だって待つのは嫌だ」
 「大げさなことを言うな。あれから、まだ一年も経っていないだろう」
 それとも、蠍像の中では時の流れが現実とは異なるとでもいうのだろうか。
 確かめようもない想定に訝しげに眉を顰めるカミュに、ミロはかぶりを振ってみせた。
 「いや、違うな。俺は、カミュに出会うために、この数百年間封印されてたんだと思う」
 さもなければ、本来生きる時代の異なる自分たちは、決してまみえることはなかったはずだ。
 そう、ミロは妙に自信に満ち溢れた声で言ってのける。
 その過剰なまでの自意識をからかってやろうと、カミュは口を開いたが生憎声にはならなかった。
 むしろ都合の良い運命論は、カミュの鼓膜を甘く震わせ、するりと熱い媚薬のように身中に忍び込んでくる。
 何度も繰り返し鷲掴みにされるように心臓が激しく収縮し、深奥にまで達した熱は血管を通じて瞬時にカミュの全身にくまなく行き渡った。
 突然異様なまでに火照りだした自分の身体にうろたえたカミュは、助けを求めるようにミロを縋りみた。
 目の前で、蒼い瞳が、妖しい笑みを浮かべて揺らめいていた。
 「……カミュ、もしかして今、すっごいドキドキしてない?」
 口の端を片方だけ軽く持ち上げたミロに見事に自分の状態を言い当てられ、困惑したカミュは視線を慌しく周囲の書架にさまよわせる。
 だが、その努力も虚しく、意識すればするほどに高鳴る鼓動を落ち着かせる術を記した本など何処にも見当たらない。
 切ないほどの胸苦しさに襲われ途方に暮れるカミュに、ミロはますます楽しげに笑った。
 「ゴメン、魅惑の魔法、使っちゃった。キスしたくなる呪文」
 「……ずるいな」
 熱に浮かされたような自分をもてあましながらも、それでもカミュは囁きめいた小さな声で頼りない抗議を試みた。
 頭の何処かでは、魔法をかけられたのなら抵抗しても仕方がないと、潔く諦めている自分がいることにも気づいていた。
 おそらくミロには、そんなカミュの内心が手に取るようにわかっているのだろう。
 形骸じみた苦情などには少しも耳を貸さず、カミュの頬に吐息がかかるまでに、ミロはゆっくりと顔を近づけてくる。
 カミュはきゅっと瞳を閉じた。
 かすかに笑いを含んだ声が耳に飛び込んできたのは、唇が重なる直前だった。
 「……っていうのは、嘘だけど」
 カミュが思わず瞳を開けたときには、既にその唇はミロにしっかりと捕らえられていた。
 口付ける二人の姿に気づいたか、店内がにわかにざわめく。
 もっとも、その漣のような耳障りな雑音は、ミロがカミュを抱く腕に力を込めると同時に嘘のように聞こえなくなった。
 ……もう、この店には来れないな。
 冷静な自分が薄れ行く理性の狭間に悲観的予測を残して消えていったが、不思議とそれを残念とは思わなかった。
 そんな自分に内心で苦笑しつつも、カミュは再び瞳を閉じると、ミロの背にそっと腕を廻した。
 愛する人をこの腕に抱き、愛してくれる人に抱きしめられること。
 二度と叶わないと思っていた夢だった。
 一旦は手にしながらも失ったことのある人間だから、カミュにはわかる。
 幸福は、こんなささやかな願いの中に存在するのだ。
 このキスが終わったらミロに礼を言おうと、陶然と霞む意識の片隅でカミュはぼんやりと思った。
 どんな魔法でも実現できない願いごとを叶えてくれて、ありがとう、と。
 その謝辞をいつになったら言わせてもらえるのかはさっぱり見当がつかなかったが、それでもよかった。
 カミュは艶やかな黄金の髪に焦れたように指を絡めながら、いつ果てるともなく落とされる心地よいキスの洗礼にひたすら酔いしれていた。
END








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