無憂宮
 ドアベルが澄んだ音を立て、カミュを優しく迎え入れてくれた。
 白昼の明るさに慣れた目が、薄暗い屋内にたじろいだように視界を揺らめかせる。
 もっともそれは屋内外の明度の落差が原因というだけではなく、骨董店独特の漂う時の重みを敏感に察知し、五感が戸惑っているせいかもしれなかった。
 ここを訪れる度に経験する通過儀礼のような違和感の洗礼には、もうすっかり慣れた。
 視界の焦点を合わせるべく瞳孔が慌しく収縮を繰り返している間にもかかわらず、そんな来客の惑いにも頓着無くかけられる静かな声にも、今更驚くこともなくなっていた。
 「栗蒸しの方にしたかね」
 およそ客を迎える言ではない。
 「心配無用」
 それでもカミュは苦笑を浮かべながら、満足気に微笑むシャカに買ってきたばかりの羊羹の包みを手渡した。
 「今日は玉露にしましたから。祝い事でしょう?」
 茶を淹れるムウの手元を見ると、既に湯呑が三つ並べられていた。
 やはり今回も、彼らは自分の訪問を予期していたのだろう。
 ここへ向かう道すがら、シャカの好きな和菓子を買わねばならないという使命感に唐突に襲われたときから、カミュには何となく察しがついていた。
 「……一応、な」
 照れくさそうに小さく頷いたカミュは、手にした鞄の中からおもむろに一冊の本を取り出した。
 骨董品に溢れた店内には不釣合いなまでの新しさが、その手の中で輝かんばかりに際立つ。
 その輝きを反映でもしたかのように晴れやかな表情のカミュは、殊更恭しくムウに本を差し出した。
 「私が初めて訳した本ができたんだ。君たちには世話になっているから、よかったら貰ってほしいのだが」
 仄かにインクの匂いが漂う気さえする頁に折れ一つない新刊書を受け取ったムウは、表紙の一点にすっと指を沿えると口元に微笑を刻んだ。
 「間違いなくあなたの名ですね、カミュ」
 「一冊しか持ってこなかったのかね。将来的には古書も扱う予定なのでな、あまり売れ残るようなら処分を引き受けても構わないが」
 「いや、まだ当分は遠慮しておこう」
 シャカの悪戯な申し出を微苦笑と共にやんわりと断わると、カミュはつと表情を引き締めた。
 「二人とも、ありがとう。君たちがいなかったら、私はずっとあのままだったと思う」
 周囲にめぐらせた頑強な殻の内に閉じこもり、想い出の揺り籠にただ揺られていた自堕落な日々は、カミュにとっては既に過去のものとなっていた。
 かすかに目を伏せ謝辞を受けとめるムウと当然とばかりに頷くシャカに、カミュは静かに言葉を続けた。
 「……さっき、サガの墓前にも本を届けてきた」
 淡々とした口調だが、事情を知る彼らにとっては深い意味をはらむ報告だった。
 夢想の中にまどろむように生きていたカミュが、サガの死をようやく現実のものとして受け入れ、乗り越えたことの証。
 その短い言葉に含まれた意をあますところなく受け止めたムウとシャカは、無言のままちらりと視線を絡めた。
 雄弁な瞳の打ち合わせの結果、最初の発言権はムウに譲られたらしい。
 「……そうでしたか。では、どういたしまして、とでも言っておきましょう」
 そして、大きな瞳に力を込めて、じっとカミュをみつめる。
 「何にせよ、よかったですね、カミュ」
 祝いの対象が多岐に渡りうる含蓄のある祝辞に、カミュは少しくすぐったそうに頷いた。
 「本当に。全ては君たちと、あと、ミロのおかげかもしれない」
 姿を消して以来久しく話題に上がっていなかった小人の名に、聞き手の二人はぴくりと眉を動かした。
 その様子に気づいた風もなく、カミュは過去を懐かしむような穏やかな表情で微笑んだ。
 「最後にミロと約束したんだ、幸せになるって。それもあって、前向きに生きていこうと考えられるようになったのだと思う」
 記憶という避難所の中に逃げ込むことは、至極安易で居心地のよい選択だった。
 しかし、そうして追想に浸るばかりでは、徒に色褪せていく過去を留めることは出来ない。
 だから、カミュは未来に目を向けねばならなかった。
 サガと過ごした時間を大切に抱きながら、カミュはカミュ自身の新しい人生を切り開いていく。
 ミロと交わした約束を果たすためには、そうして現実に向き合う覚悟を要求されていることを、既にカミュは理解していた。
 小人との出会いと別れは少々荒療治だったかもしれないが、カミュを現世に引き戻す充分な効果があったらしい。
 ムウは慣れた手つきで羊羹を切り分けながら、くすりと笑った。
 「あなたが蠍を返しに来た時には驚きましたけどね」
 訝しげなカミュに、シャカもまた口元を緩めた。
 「まったくだ。私たちは、てっきり君が小人の封印を解くと思っていたのだが」
 ミロは何でも願いを叶えてくれる小人だ。
 封印を解き小人から人間に戻るということでさえ、そう願ってくれる者さえいれば可能なはずだった。
 ミロを慈しんでいたカミュがその願い主となることも、どうやら傍から見ていた友人たちにとっては極自然な流れと了解されていたらしい。
 「……そう、だったのか」
 「そうですよ」
 呆れ声のムウが差し出す菓子皿を受け取りながら、カミュは驚いたように瞳を瞬かせていたが、すぐに仄かに漂う緑茶の香りに慰撫されるように表情を和ませた。
 「……その願いも考えなかったわけではないが、あのときの私にはやはり無理だったろうな」
 ミロの笑顔を脳裏に思い描きながら、カミュはかすかに自嘲の笑みを浮かべた。
 「今なら彼を人間に戻そうと願うこともできると思うが、あの頃は自分のことだけで精一杯だったから」
 だから、ミロの想いを受け止めることもできずに、逃げ出した。
 思い返しては時にその決断を後悔することもあったが、当時の自分には他の途を選ぶことはどうしてもできなかったように思う。
 心の傷は、自分の力で乗り越えねばならなかった。
 無論、時の流れや人の優しさは治癒に不可欠な要素ではあったが、最終的にはやはり自分自身が強くなる必要があった。
 再び一人になって、ようやく悟った。
 安きに流され続けていたカミュの目を覚まさせてくれたのは、掌の上に乗るような小さな小人だった。
 自分の弱さも醜さも全て知っている友人たちに今更取り繕うこともなかったが、それでもカミュはかすかな羞恥の色に頬を染め口を噤んだ。
 友情の証か、そんなカミュの反応になど気づかない素振りで平然と喉を潤していたムウが、やがてふと思い出したように口を開く。
 「そうそう、私たちから出版祝いの品があるのですよ。そのうちそちらに届くと思いますけどね」
 「……え?」
 「予め言っておくが、返品は一切受け付けないのでな」
 「それはありがたいが……、また妖しい古道具などではないだろうな」
 冗談めかした言葉の中に一抹の不安を押し隠しつつ、カミュは問うた。
 答えはなかった。
 一癖も二癖もある友人たちは秀麗な美貌に笑みを浮かべたまま、ただ上機嫌で茶菓に舌鼓を打っているだけだった。

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