無憂宮
 蠍の像。
 全ては、この像を手にしたことが始まりだった。
 ミロはこの像の中から姿を現し、そしてまたこの中に帰って行く。
 次に封印を解く者と巡り会うまで、漆黒の闇に包まれた深い深い眠りにつく。
 卓上に置かれた像を、ミロは感慨深げに見上げていた。
 数百年を共にしたとはいえ、彼にとっては己を小人の姿に拘束する拷問具であることに変わりはない。
 再び虜囚の身となる自分の運命を、彼はどう受け止めているのか。
 気が遠くなるような時の重さと運命の過酷さに阻まれ、彼を蠍像に封印する張本人でもあるカミュには、その内心を忖度することすらできなかった。
 「……じゃ、そろそろ始めよっか」
 しばらくして振り返ったミロは、いつもと変わらぬ快活な笑みを見せた。
 カミュは無言のままだった。
 願いを叶える儀式だというのに、少しも嬉しくもないのは何故だろう。
 答えは判りすぎるほどにわかっていた。
 内なる感情に真正面から向き合う勇気が自分にはないこともわかっていた。
 だから、俯くことしかできなかった。
 「蠍の上に手を置いて」
 てきぱきとしたミロの指示に、カミュは催眠術でもかけられたようにのろのろと手を持ち上げた。
 空気が重く圧し掛かってくるようで、何故か無性に腕がだるい。
 意に染まない動作が引き起こした錯覚から逃れるべく、カミュは軽く頭を左右に振ると蠍像に重ねた手に意識を集中させた。
 黒金の像の表を通じて、掌に冴え冴えとした冷気が伝わってくる。
 冷たく硬い氷の彫刻を握り締めているような、この感覚はまるで……。
 びくりと指先が震えた。
 手から腕、腕から肩へと、振動は徐々に這い登ってくる。
 突如極寒の地に放り込まれたようにカミュの全身が小刻みに揺らぎだすまで、そう時間はかからなかった。
 意識的に記憶から遠ざけていた光景が、慄然と震えるカミュの眼前に浮かんだ。
 それは、横たわるサガの姿だった。
 かすかに青ざめてはいるものの、サガは堅く瞳を閉じ眠っているようだった。
 ただ、この眠りは深すぎる。
 彼が二度と目覚めることはないことを、震えながらその頬に伸ばした手が残酷に教えてくれた。
 指先に触れた冷たく硬い触感から呼び起こされる情動は、あのときと同じだ。
 物言わぬサガに最後に手を触れたときの衝撃が一気に甦る。
 紅い瞳からすっと光が消えた。
 闇夜に轟く雷鳴のように、激情がカミュの空虚な心の内を容赦なく切り裂いた。
 二度と、できない。
 話すことも、触れ合うことも、もう何一つできない。
 カミュを置き去りにして、サガは勝手に時を止めてしまった。
 カミュの手の届かない世界へ、たった独りで旅立ってしまった。
 別れの悲哀と、喪失の恐怖。
 悲鳴を上げて現実から逃げ出したくなる突発的な衝動が、まるで津波のようにカミュをさらった。
 「カミュ、もう一度願いごとを言ってよ」
 儀式の催行に集中する余り、感情の奔流に翻弄され恐慌するカミュの異変にも気づかないのか。
 ミロは蠍像に目をやったまま、暢気な声で繰り返し促してきた。
 「カミュ?」
 焦れたように見上げてくるミロの気遣わしげな視線を、焦点を失った紅い瞳がぼんやりと受け止めた。
 何か、言わなくてはいけない。
 何か。
 表層意識だけが、かろうじてミロの声を聞き取った。
 自分が口にする言葉の意味を考えることもできないまま、カミュの乾いた唇は催促の声に導かれるように勝手に音を紡ぎだしていた。
 「……ミロに、私の前から、いなくなってほしい」
 再びミロに願いを告げなくてはならない事態に備え密かに練習してきた台詞は、既にカミュの身に深く染み付いてしまったようで、一言一語そこなうこともなく淡々と再生される。
 「……それで、変更ない?」
 最終確認をするミロの声に、極微量の落胆が混じったような気がした。
 今ならまだ間に合う。
 願いを撤回することができる。
 誰かが叫ぶ声を、はるか遠くに聞いた。
 だがその声は何をもたらすでもなく、ただふわりと通り過ぎていくだけだった。
 依然として思考が麻痺した状態にあるカミュは、ミロから視線を外したまま力なく頷いた。
 沈黙が降りた。
 しかし、それも束の間。
 「よし、では、その願い、叶え奉らん」
 おどけたようなミロの声が静寂を破り、と同時に、蠍像から突如白煙が噴出する。
 初めてミロが現れたときの映像を逆回転で映写しているように、小人の姿は見る間に立ち込める煙に霞み始めた。
 ミロが、消える。消えてしまう。
 別離に向けて流れ出した事態を止める術は、もはや無い。
 視界に生じた急激な変化にようやく我に返ったカミュは、必死にミロの姿を捜し求めた。
 「ねえ、カミュ。俺の願いも聞いてよ」
 煙の中、ミロは笑っていた。
 透徹とした感さえある、清々しいまでに穏やかな笑みを浮かべていた。
 とても綺麗な笑顔なのに、薄煙に包まれてぼんやりとしか見えないのが無性に哀しい。
 何故この煙は、これほど瞳にしみるのだろう。
 カミュは指先でこっそりと目の端を拭うと、黙ってミロの次の言葉を待った。
 「とりあえず今は消えるけどさ。あと三つ、あと三つ誰かの願いを叶えたら、俺、人間に戻るから。だから、それまで待っててよ」
 「……え……?」
 「ああ、俺が迎えに来るのを待っててって訳じゃなくて。何十年先になるかわかんないし」
 ミロの願いの意味を量りあぐね瞳を瞬かせるカミュに、ミロは慌てたように両手を振って否定してみせた。
 「たださ、俺、いつかまた必ずカミュに会いにいくから。俺以外の誰を好きになっててもいいけど、そのときは幸せに笑っててよ」
 「……ミロ……」
 「あんた、自分は不幸にはならないから心配するなって俺に言ったろ。言ったことにはちゃんと責任持てよ」
 それは、落ち込んだミロを慰めようとして口をついてでただけの、深い意味を持たない台詞のつもりだった。
 それでもミロは言質をとったように得意げに、カミュをまっすぐにみつめて続ける。
 「でなきゃ俺、あんたのことが心配で、おちおち眠ってもいられないだろ」
 煙がますます濃くなってきた。
 既にミロの姿は、うっすらとした影にしか見えなくなりつつある。
 もっとも、それはミロから見た自分も同じことだろう。
 少なくとも、今の自分の表情をミロが目にしないのは嬉しいことだ。
 声だけなら、元気な自分をかろうじて装える。
 カミュは小さく息をつくと、口元を懸命に笑いの形に歪めた。
 「わかった。君が驚くくらい私は年をとっているかもしれないが、次は笑顔で君に会えるよう努力しよう」
 「ん、約束な」
 不自然にならない程度に精一杯明るい声を出すカミュに、ようやくミロは安心したのだろう。
 ほっとしたような声が、煙の中から跳ね返ってきた。
 煙る視界は真っ白に埋め尽くされ、影すら覆い隠されつつあるにもかかわらず、カミュは確かに煙幕の向こうにミロの満面の笑みを見た。
 傍にいるこちらまで楽しくなるような、生き生きとした笑顔。
 幾度となくカミュを支えてくれたその姿を脳裏に焼き付けようと、カミュはきゅっと瞼を閉じた。
 と、その瞬間を狙い済ましたように、蠍像に重ねた腕を伝い何かがさっと駆け上がってくる。
 恐る恐る目を開けたカミュは、自分の肩口にちょこんと乗っているミロをみつけた。
 突然間近に現れたミロは、瞳を見張るカミュににっこりと笑ってみせた。
 「好きだよ、カミュ」
 言うなり、背伸びをしたミロは、カミュの頬にさっと盗み取るような口付けを落とすと、今度は腕を滑り台にして煙の中に戻って行く。
 引き止める間もなかった。
 やがて煙はかき消すように晴れていく。
 クリアになった視界には、再び馴染み深い部屋が現れた。
 窓辺のドールハウスも、書棚に整然と並ぶ本も、背の高い観葉植物の鉢植えも、今までと変わらずそこにあった。
 ただ一つ欠けているのは、小人の姿だった。
 もうすっかり目に馴染んでしまった、輝く黄金の髪を揺らしてちょこまかとせわしなく動き回る姿は、どこにも見当たらない。
 カミュは手の下の蠍像を取り上げてみた。
 心なしか以前より重みを増した気がした。
 この中に、ミロがいる。
 次に封印が解かれる日まで、カミュとの想い出を大切に抱え、彼は昏々と眠り続けるのだろう。
 再会の時を心待ちにし、幸福そうなカミュの笑顔を夢にみながら。
 ふいに目頭が熱くなり、像の輪郭がぼんやりとにじんだ。
 堪えきれずカミュの瞳から零れ落ちた涙が一粒、蠍の背を濡らす。
 指先でその雫を拭いとったカミュは、少し考えた後、そのまま二度三度と像を強く擦ってみた。
 しかし、像を磨いたというのに、先日とは異なり一向に煙が噴出す兆しはない。
 カミュがミロを呼び出すことは、もはや許されないらしい。
 「……こんなときばかり、上手く魔法をかけるんだな」
 カミュは小さく笑った。
 ミロがこの数百年の間に出会った主の中で、最も慎ましやかで最も利己的な願いを叶えてもらった人間に相応しい、ひどく寂しげな笑みだった。

BACK          CONTENTS          NEXT