何事もなかったように数日が過ぎた。
体こそ満足に動かせないものの、ミロは相変わらず口だけは達者にその存在をアピールしていた。
カミュの訣別宣言を、ひょっとしたらミロは麻酔から醒めつつある朦朧とした意識の中でみた悪い夢だと思っているのかもしれない。
そう疑ってしまうほどに、ミロはあくまで陽気で快活で、何の悩みも心配事もないようだった。
他方、決して大人しくはない怪我人を甲斐甲斐しく看病しながら、カミュは時折心臓をぐいと掴まれるような痛みに苛まれていた。
ミロが楽しげであればあるほど、じりじりとその痛みは強さを増していく。
もう一度、あの辛い一刻を繰り返せと言うのだろうか。
この世に息づく者の中で最も非道で残酷な人間になったような気さえする、あの瞬間を。
極刑を宣告する裁判官のように望まれない最後通告を下す役目は、カミュには荷が重過ぎた。
ミロがカミュに寄せる想いの深さは、彼がカミュのために簡単に自分の命を危険に晒してしまえたことからも察しがつく。
そのミロを拒絶するのは、あのときのような発作的な衝動に駆られないかぎり至難の業だった。
それとも、彼が夢だと思っているのをいいことに、いっそこのまま全てを忘れた振りをしてしまおうか。
そうすれば、このまま小人のミロと二人、今までのように楽しく和やかに暮らしていくことだってできるはずだ。
甘美な誘惑だった。
だがその一方で、やはりそれは許されないことだとも思う。
今、カミュが差し出されたミロの手にすがってしまうのは、ただ彼が傍にいてくれるから。
共にいる居心地の良さに溺れ、ミロの愛情と優しさを利用しているというだけのことなのだ。
サガを失った喪失感で心にぽっかり空いた穴を、ミロは塞ぐことはできないにしても、少なくとも蓋をして視線を逸らすことはできる。
ミロとの交情がそうした一時凌ぎの自己欺瞞などではないと、断言できるだけの論拠は余りに乏しすぎた。
しかし、そうした自分の狡さへの嫌悪感よりもはるかに切実な理由があることを、最近になってようやくカミュは認める気になっていた。
目を背けているのもかかわらず、時折無理やり目の前に突きつけられては必死に瞳を閉じてきた可能性。
こちらの方が、カミュにははるかに怖かった。
ミロと触れ合い共に過ごした時間の中、カミュは彼の良い所も悪い所も全て見てきた。
全て知った上で、ミロの隣の快適さも知ってしまった。
そもそも彼が小人だったから、ペットを飼い始めたような気楽な感覚でいたから、サガにしか心を向けていなかったカミュも、すんなりとミロを受け入れることができたのだ。
受け入れた結果、彼を愛しいと、傍にいたいと思うようにまでなったのだ。
彼が人間に戻ったならば、ミロという存在に対して抱く好意はどう変化を遂げるのだろう。
もちろん、このまま良き友人としての関係を続けられるかもしれない。
だが、カミュを抱きしめたときのミロの熱っぽい瞳を思い出すと、その結末は可能性が低いと言わざるをえまい。
あの焦がれるような蒼い瞳は、危険なまでに貪欲だ。
友情だけでなく、恋情も愛情も、カミュの全てを独占したいと切望していた。
カミュとてミロを嫌いではないのだ。
そんな視線に常に晒されていたら、小人のミロを愛しいと想う気持ちが恋に姿を変えないとは言い切れなかった。
それが、怖い。
ミロを好きになってしまったら、サガへの想いが塗り替えられることになる。
優しい眼差しも、穏やかな微笑を浮かべる口元も、肩に落ちかかる艶やかな髪も、器用で繊細な長い指も、サガはもう自分の記憶の中にしか存在しないのに、その一つ一つのイメージが次第に薄れていくことには耐えられそうもなかった。
まだサガを失ってから半年程しか経っていないのに、自分があっけなく彼を忘れてしまうことがたまらなく怖い。
怖くて怖くて、その恐怖から逃れるためにも、ミロには小人の姿のままでいてもらいたかった。
しかし当然のことながら、このままミロをずるずると自分の元に留め置いたならば、彼が呪いを解き再び人間に戻る機会を奪い去ってしまうことになってしまうのだ。
全ては自分の我侭だ。
だから、その報いは受けねばならない。
自分の口で、きっぱりとミロに別れを告げなければならない。
内心で決意を堅くしたカミュは、その別れの日をミロの怪我が完治したときと密かに思い定めた。
順調なミロの回復振りを一緒になって喜びながら、その陰で、元気に笑うミロの口から「もう大丈夫」という台詞が出ることに怯えていた。
そして、時は訪れた。
うるさく騒ぎたてる目覚まし時計にせかされて、カミュは渋々枕を手放した。
まだ眠たげに覆いかぶさってくる瞼を擦りつつ、アラームを止めようとサイドテーブルに手を伸ばす。
時計の傍近くでは、人形用の小さな寝台でミロが眠っているはずだ。時計と間違えてミロを叩いてしまわないよう、カミュはぼんやりと薄目を開けた。
朝の光の眩しさに一瞬目が眩み、それでも懸命に瞼を持ち上げたカミュは、程なく漂う違和感に気づく。
視界がゆるゆると焦点を結び始めるにつれ、その原因はすぐにわかった。
寝台に、ミロの姿がなかった。
眠気は一気に去り、カミュは凍りついたように動きを止めた。
まだ体調は万全とは言えないはずだ。ようやく上体を起こせるようになったばかりなのに、一体どこへ行ったというのだろう。
その目立つ黄金の髪を捜して周囲をきょろきょろと見渡したが、求める色彩はどこにも見当たらない。
一体、どこへ?
神経を逆撫でするように鳴り続けるアラーム音に一層不安を煽られ、カミュは慌てて寝室を飛び出した。
「あ、おはよ。起きた?」
リビングの窓辺に置かれたドールハウスの中から声が聞こえた。
拍子抜けするほど暢気な挨拶に迎えられ思わずたたらを踏むカミュを、ミロは面白そうにみつめていた。
「……ああ、おはよう」
決まり悪げに髪を手櫛で整えつつぼそぼそと挨拶を返すカミュの瞳に、不審の色が浮かぶ。
「ミロ、それ……」
「何?」
ミロは初めて現れた時と同じ異国風の衣装を身に着けているところだった。
仕上げとばかりに腰のサッシュをきゅっと締め、満足気に腕を広げて盛装した自分の姿を鏡に映す。
「ん、やっぱり似合う」
とくとくと、カミュの心臓の音が次第に大きく鳴り響き始めた。
予期されていた、しかし、どこかで避けられると安易にも思い込み始めていた事態が現実化しつつあるのをひしひしと感じた。
ミロの怪我はいつの間にやらすっかり治っていたらしい。
その吉報は、同時にカミュに辛い選択を実行させる時期が来たことをも告げていた。
元気を取り戻し機嫌のよいミロに陰鬱な宣告を下すのは、やはりどうにも気が進まない。
唇を噛みしめるカミュの気も知らぬげに、ミロはモデルさながらの気取ったポーズをとりながら鏡に映る自分と戯れていた。
ドールハウスの小さな鏡には、カミュの姿も映りこんでいるのだろう。
やがて、こちらを振り返りもせず、ミロは唐突に鏡の中に向かって語りかけた。
「カミュ、今日、あんたの願いを叶えるから。待たせて悪かったな」
弾丸のように打ち込まれた台詞が、一瞬でカミュの呼吸を止めた。
言葉だけで胸を突くような激しい衝撃を与える、これもミロの魔法なのかもしれない。
愕然と瞳を見開くことしかできないカミュに、ミロはようやく振り向くと片目を閉じて悪戯っぽく笑ってみせた。
「というわけで、今日でお別れだから、朝食はちょっと豪華にしてほしいんだけど」
「ミロ……」
「ダメ?」
小首を傾げ、ご褒美をねだる仔犬のように、ミロはカミュを見上げてくる。
拒絶など出来ようはずもない。
しばしの沈黙の後、カミュは承諾の意を示すべく小さく頷いた。
ミロの想いを踏みにじってしまったのだから、そんなささやかな希望くらいは叶えてあげたい。
というよりも、叶えさせてもらいたかった。
自分のために。
せめてもの償いのために。
「……何がいい?」
笑おうと、できるだけ優しくていい表情をしようと、カミュは思った。
ミロにもらったたくさんの温かく楽しい思い出への感謝をこめて、最後はせめて笑顔の自分を見せたかった。
それなのに、どう頑張ってみても、今にも泣き出しそうな引きつった笑みしか作れなかった。
体こそ満足に動かせないものの、ミロは相変わらず口だけは達者にその存在をアピールしていた。
カミュの訣別宣言を、ひょっとしたらミロは麻酔から醒めつつある朦朧とした意識の中でみた悪い夢だと思っているのかもしれない。
そう疑ってしまうほどに、ミロはあくまで陽気で快活で、何の悩みも心配事もないようだった。
他方、決して大人しくはない怪我人を甲斐甲斐しく看病しながら、カミュは時折心臓をぐいと掴まれるような痛みに苛まれていた。
ミロが楽しげであればあるほど、じりじりとその痛みは強さを増していく。
もう一度、あの辛い一刻を繰り返せと言うのだろうか。
この世に息づく者の中で最も非道で残酷な人間になったような気さえする、あの瞬間を。
極刑を宣告する裁判官のように望まれない最後通告を下す役目は、カミュには荷が重過ぎた。
ミロがカミュに寄せる想いの深さは、彼がカミュのために簡単に自分の命を危険に晒してしまえたことからも察しがつく。
そのミロを拒絶するのは、あのときのような発作的な衝動に駆られないかぎり至難の業だった。
それとも、彼が夢だと思っているのをいいことに、いっそこのまま全てを忘れた振りをしてしまおうか。
そうすれば、このまま小人のミロと二人、今までのように楽しく和やかに暮らしていくことだってできるはずだ。
甘美な誘惑だった。
だがその一方で、やはりそれは許されないことだとも思う。
今、カミュが差し出されたミロの手にすがってしまうのは、ただ彼が傍にいてくれるから。
共にいる居心地の良さに溺れ、ミロの愛情と優しさを利用しているというだけのことなのだ。
サガを失った喪失感で心にぽっかり空いた穴を、ミロは塞ぐことはできないにしても、少なくとも蓋をして視線を逸らすことはできる。
ミロとの交情がそうした一時凌ぎの自己欺瞞などではないと、断言できるだけの論拠は余りに乏しすぎた。
しかし、そうした自分の狡さへの嫌悪感よりもはるかに切実な理由があることを、最近になってようやくカミュは認める気になっていた。
目を背けているのもかかわらず、時折無理やり目の前に突きつけられては必死に瞳を閉じてきた可能性。
こちらの方が、カミュにははるかに怖かった。
ミロと触れ合い共に過ごした時間の中、カミュは彼の良い所も悪い所も全て見てきた。
全て知った上で、ミロの隣の快適さも知ってしまった。
そもそも彼が小人だったから、ペットを飼い始めたような気楽な感覚でいたから、サガにしか心を向けていなかったカミュも、すんなりとミロを受け入れることができたのだ。
受け入れた結果、彼を愛しいと、傍にいたいと思うようにまでなったのだ。
彼が人間に戻ったならば、ミロという存在に対して抱く好意はどう変化を遂げるのだろう。
もちろん、このまま良き友人としての関係を続けられるかもしれない。
だが、カミュを抱きしめたときのミロの熱っぽい瞳を思い出すと、その結末は可能性が低いと言わざるをえまい。
あの焦がれるような蒼い瞳は、危険なまでに貪欲だ。
友情だけでなく、恋情も愛情も、カミュの全てを独占したいと切望していた。
カミュとてミロを嫌いではないのだ。
そんな視線に常に晒されていたら、小人のミロを愛しいと想う気持ちが恋に姿を変えないとは言い切れなかった。
それが、怖い。
ミロを好きになってしまったら、サガへの想いが塗り替えられることになる。
優しい眼差しも、穏やかな微笑を浮かべる口元も、肩に落ちかかる艶やかな髪も、器用で繊細な長い指も、サガはもう自分の記憶の中にしか存在しないのに、その一つ一つのイメージが次第に薄れていくことには耐えられそうもなかった。
まだサガを失ってから半年程しか経っていないのに、自分があっけなく彼を忘れてしまうことがたまらなく怖い。
怖くて怖くて、その恐怖から逃れるためにも、ミロには小人の姿のままでいてもらいたかった。
しかし当然のことながら、このままミロをずるずると自分の元に留め置いたならば、彼が呪いを解き再び人間に戻る機会を奪い去ってしまうことになってしまうのだ。
全ては自分の我侭だ。
だから、その報いは受けねばならない。
自分の口で、きっぱりとミロに別れを告げなければならない。
内心で決意を堅くしたカミュは、その別れの日をミロの怪我が完治したときと密かに思い定めた。
順調なミロの回復振りを一緒になって喜びながら、その陰で、元気に笑うミロの口から「もう大丈夫」という台詞が出ることに怯えていた。
そして、時は訪れた。
うるさく騒ぎたてる目覚まし時計にせかされて、カミュは渋々枕を手放した。
まだ眠たげに覆いかぶさってくる瞼を擦りつつ、アラームを止めようとサイドテーブルに手を伸ばす。
時計の傍近くでは、人形用の小さな寝台でミロが眠っているはずだ。時計と間違えてミロを叩いてしまわないよう、カミュはぼんやりと薄目を開けた。
朝の光の眩しさに一瞬目が眩み、それでも懸命に瞼を持ち上げたカミュは、程なく漂う違和感に気づく。
視界がゆるゆると焦点を結び始めるにつれ、その原因はすぐにわかった。
寝台に、ミロの姿がなかった。
眠気は一気に去り、カミュは凍りついたように動きを止めた。
まだ体調は万全とは言えないはずだ。ようやく上体を起こせるようになったばかりなのに、一体どこへ行ったというのだろう。
その目立つ黄金の髪を捜して周囲をきょろきょろと見渡したが、求める色彩はどこにも見当たらない。
一体、どこへ?
神経を逆撫でするように鳴り続けるアラーム音に一層不安を煽られ、カミュは慌てて寝室を飛び出した。
「あ、おはよ。起きた?」
リビングの窓辺に置かれたドールハウスの中から声が聞こえた。
拍子抜けするほど暢気な挨拶に迎えられ思わずたたらを踏むカミュを、ミロは面白そうにみつめていた。
「……ああ、おはよう」
決まり悪げに髪を手櫛で整えつつぼそぼそと挨拶を返すカミュの瞳に、不審の色が浮かぶ。
「ミロ、それ……」
「何?」
ミロは初めて現れた時と同じ異国風の衣装を身に着けているところだった。
仕上げとばかりに腰のサッシュをきゅっと締め、満足気に腕を広げて盛装した自分の姿を鏡に映す。
「ん、やっぱり似合う」
とくとくと、カミュの心臓の音が次第に大きく鳴り響き始めた。
予期されていた、しかし、どこかで避けられると安易にも思い込み始めていた事態が現実化しつつあるのをひしひしと感じた。
ミロの怪我はいつの間にやらすっかり治っていたらしい。
その吉報は、同時にカミュに辛い選択を実行させる時期が来たことをも告げていた。
元気を取り戻し機嫌のよいミロに陰鬱な宣告を下すのは、やはりどうにも気が進まない。
唇を噛みしめるカミュの気も知らぬげに、ミロはモデルさながらの気取ったポーズをとりながら鏡に映る自分と戯れていた。
ドールハウスの小さな鏡には、カミュの姿も映りこんでいるのだろう。
やがて、こちらを振り返りもせず、ミロは唐突に鏡の中に向かって語りかけた。
「カミュ、今日、あんたの願いを叶えるから。待たせて悪かったな」
弾丸のように打ち込まれた台詞が、一瞬でカミュの呼吸を止めた。
言葉だけで胸を突くような激しい衝撃を与える、これもミロの魔法なのかもしれない。
愕然と瞳を見開くことしかできないカミュに、ミロはようやく振り向くと片目を閉じて悪戯っぽく笑ってみせた。
「というわけで、今日でお別れだから、朝食はちょっと豪華にしてほしいんだけど」
「ミロ……」
「ダメ?」
小首を傾げ、ご褒美をねだる仔犬のように、ミロはカミュを見上げてくる。
拒絶など出来ようはずもない。
しばしの沈黙の後、カミュは承諾の意を示すべく小さく頷いた。
ミロの想いを踏みにじってしまったのだから、そんなささやかな希望くらいは叶えてあげたい。
というよりも、叶えさせてもらいたかった。
自分のために。
せめてもの償いのために。
「……何がいい?」
笑おうと、できるだけ優しくていい表情をしようと、カミュは思った。
ミロにもらったたくさんの温かく楽しい思い出への感謝をこめて、最後はせめて笑顔の自分を見せたかった。
それなのに、どう頑張ってみても、今にも泣き出しそうな引きつった笑みしか作れなかった。