無憂宮
 続く沈黙がそろそろ苦痛になり始めた。
 その居心地の悪さから逃れようと、カミュは何とかして新たな会話を始めようとしたが、そんな時に限って話の接ぎ穂は見当たらない。
 清流に差し入れた指の間をすり抜けていく魚のごとく、話題になりうるテーマはその姿をしかとは現さないまま、カミュをからかうように脳裏を通り過ぎては消えていく。
 そうしてカミュがかすかな苛立ちすら感じ始めた一方で、シャカは意に介した風もなく穏やかに微笑んだまま、話題の提供に協力しようとする素振りさえみせなかった。
 やがて、優しげな笑みを浮かべたまま、シャカがほんの少し首を傾ける。
 音も無く扉が開いたのは、そのわずか数瞬後だった。
 「……終わりましたよ」
 いつも悠然と構えている彼には珍しく、声にも顔にも疲労の影をにじませたムウが室内に入ってきた。
 「ミロは?」
 息せき切って尋ねるカミュに、大きな瞳をわずかに細めたムウは不興気な一瞥を与えた。
 「その前に、まず何か私たちに言うことがあるんじゃないんですか、カミュ」
 声に含まれるやや硬質の響きが、ムウの決して安らいでいるとはいえない内心を如実に伝えてくる。
 カミュは親の叱責を逃れようとする子供のようにしばらく視線をあらぬ方向に彷徨わせていたが、やがて観念したか、囁くような声で尋ねた。
 「……怒っているのか?」
 「そういうわけではありませんけどね」
 ムウはにっこりと笑った。
 だが、もし目の前に手をかざして視界の下半分を切り取ったなら、ムウの瞳は少しも和んでいないことが苦も無く理解できただろう。
 そして、長年彼との間に友情を育んできたカミュは、そのような労を要しなくても、ムウの笑顔の下の本心を汲み取ることに成功していた。
 カミュは上目遣いでムウを見上げると、恐る恐る口を開いた。
 「……心配かけてすまなかった」
 「それだけですか?」
 「……助けてくれてありがとう」
 消え入りそうな小さな謝辞に、対峙する二人の間に漂うぴんと張り詰めた空気が一気に緩む。
 「全く、つくづく手のかかる人ですね、あなたは」
 今までの威勢はカミュをからかっていただけなのだと言わんばかりに、ムウは一転して瞳を楽しげに揺らめかせた。
 緊張からあっけなく解き放たれ安堵のため息をついたカミュは、小声で「すまない」と繰り返すと、もう一度じっとムウをみつめた。
 ときに瞳は口よりもはるかに雄弁だ。言葉にする必要もなく、その眼差しの意図は伝わったのだろう。
 ムウは無言で頷くと、上向けた掌をすっと胸の辺りまで持ち上げた。
 一瞬の後、その優美な手の上には小さな寝台が現れた。
 掌サイズの寝台には、豪華な縫い取りの施された絹の上掛け。そしてその枕頭には、柔らかそうな金糸の塊が覗いていた。
 身動き一つしないミロの姿に、カミュはこくりと喉を鳴らした。
 「しばらくは絶対安静ですね」
 それさえ守れば命の心配はないと、ムウは安心させるように微笑むと寝台をそっとカミュに手渡した。
 息を詰めたカミュは手の中の小人を覗き込んだ。
 堅く瞳を閉じ、ミロは静かに横たわっていた。
 大量の失血の名残を窺わせるように、顔色は青ざめ生気の欠片もない。
 死んだように眠っているのか。もしくは、その、逆か。
 ムウの言葉を信じないという訳ではなかったが、どうしても自分で彼の無事を確かめたくて、カミュは震える指を小人の顔の上にかざしてみた。
 どんなにわずかな生の証でも見逃さない探知機のように、全神経が冷たい指先に集中する。
 指の腹に、かすかに温かい空気の流れを感じた。
 生きて、いる。
 「……よかった……」
 思わず漏れた声が、ミロの密やかな呼吸などよりもはるかに盛大に空気をかき乱す。
 心の重荷から解き放たれ放念したカミュの口元に、ようやく笑みが浮かんだ。
 その笑顔が何かの合図ででもあるかのように、ムウとシャカはちらりと視線を絡ませた。
 「……では、私たちはそろそろ帰るとしよう」
 「もう帰るのか?」
 訝しげなカミュに、ムウの呆れ声が届く。
 「あなた、自分がどれだけ長い間気を失っていたと思うんです?」
 カミュはきょとんと瞳を瞬かせた。
 一連の出来事はつい先程のことのように思っていたのだが、そう言われて時計を見てみると、短針は記憶にある位置からかなり移動していた。
 驚いて周囲を見渡すと、時計が嘘をついていないことを証明するように、もうすっかりカーテンの向こうは夜の闇に閉ざされている。
 ようやく事態を理解し恐縮するカミュに、ムウは出来の悪い生徒を前にした教師のごとく重々しく頷いてみせた。
 「あなたもさすがに空腹でしょう。シャカが薬膳粥を作ってくれたようですから、それでも食べてゆっくりお休みなさい」
 ムウの優しげな言葉に、一瞬の沈黙の後、顔を引きつらせたカミュはがっくりと肩を落とした。
 「……やはり怒っているのだな、ムウ」
 「……カミュ、それは一体どういう意味かね」
 折角の心づくしを懲罰扱いされ不満を隠せないシャカがぼそりと呟いた。
 全ての元凶となった妖魔をかるく凌駕する剣呑な気が、シャカの背後から朧に立ち昇り出す。
 おどろおどろしく淀みだす得体の知れない異様な雰囲気に、苦笑したムウが割って入った。
 「まあ、後はあなたにお任せします」
 むくれたシャカを宥めるように部屋の外へ押し出しつつ、ムウはカミュを振り返った。
 そして、じっと紅い瞳をみつめ、静かに告げる。
 「あなたはもう、自分のなすべきことをわかっているのでしょう?」
 しばらくの間、カミュは真っ向からその視線を受け止めていた。
 静寂が、二人の間に見えない雪のように降り積もる。
 やがて、カミュはゆっくりと頷いた。


 二人を見送ったカミュは、再び寝室に戻ってきた。
 普段なら床に就く時間だったが、半日余りも眠っていた後では、さすがに今は寝ようという気にはならない。
 とりあえず寝台を整えようと寝乱れた毛布に手をかけ、ふと何かを感じたカミュは動きを止めた。
 「……帰った?」
 背後から届いた聞き逃してしまいそうなほど小さな声に、カミュは驚いて振り返った。
 サイドテーブルに載せた小さなベッドの上で、もつれた金糸に半ば覆い隠されるように、極小の蒼い光が二つ灯っていた。
 「目が覚めたのか、ミロ」
 「しばらく前からね。あの二人、ちょっと苦手だから、寝てる振りしてただけ」
 気づかれてるかもしれないけど、とミロは弱々しく笑ってみせた。
 それは大いにありうることだと内心で思いつつ、カミュは寝台に腰を下ろした。
 「……かっこ悪いよな、俺。姫君を救いに来て返り討ちにあってりゃ、おとぎ話の王子さまにもなれやしない」
 相変わらず顔色は悪いものの、冗談を言う元気はあるらしい。
 照れくさそうに呟くミロの髪を、カミュは静かに撫でてやった。
 「……痛むか?」
 「ちょっとね。でも、麻酔かけられてるみたいで、まだぼうっとしてるからよくわからない」
 饒舌な割りに、先程から少し舌足らずな口ぶりはそのためか。
 カミュはじっとミロをみつめた。
 元気にちょこまかと動き回るミロに慣れてしまっていたから、こうして力なく横たわる姿を見ると、その原因が自分にあるだけにどうしようもなく胸が痛む。
 カミュは深々と頭を垂れた。
 「すまない。私のせいだ」
 両手をぎゅっと握り合わせたカミュの振り絞るような謝罪に、ミロは首を振った。
 「カミュのせいじゃないって。もともと俺がとどめ刺さずに手抜きしたのが悪いんだし」
 それでも俯いたままのカミュの気を引き立てようとしたか、ミロは明るい声で続けた。
 「単に俺がカミュを守りたかっただけなんだから、気にすんなよ。ご主人さまはご主人さまらしくしてりゃいいんだ」
 ミロの懸命の慰めを聞いていたカミュの身体が、一瞬びくりと震えた。
 ご主人さま……。
 自分の立場を示すミロの言葉を口の中で繰り返し呟いたカミュは、祈るように組み合わせた手に力を込めた。
 圧迫された指の痛みが、腕を通じて心臓にまで伝わってくる。
 限界だ。
 胸を切り裂く鋭い痛みを振り切るべく、カミュは無理やり手を解くと勢いよく立ち上がった。
 そしてミロの視線を避け逃げるように戸口へ向かうと、扉に手をかけたところでようやく歩みを止めた。
 「ミロ」
 「何?」
 「もう私をご主人さまと呼ばなくていい」
 後ろを見なくても、不思議そうな顔をしたミロが首だけこちらに向けてくるのがわかる。
 わずかに震える声を落ち着けようと、カミュは静かに深呼吸を繰り返すと、乾いた唇を開いた。
 「願いごとが、決まったから」
 ろくに動けないにもかかわらず、ミロが身じろぐ気配がした。
 願いを口にすることがこれほど難しい所業とは、一体誰が予想しただろう。
 自分の言葉がミロに与えた衝撃に気がつかない振りをして、カミュは扉に視線を据えたまま淡々と続けた。
 「君に、私の前からいなくなってほしい」
 返事は無かった。
 ようやく決まったカミュの願いごとを知っても、どんな願いでも叶えると胸を張って約束してくれた小人は沈黙を守ったままだった。
 そうしてどれほどの時間が過ぎただろう。
 意を決しての発言が本当に伝わったのか、カミュが不安に襲われ始めた頃、やっとミロは反応を返してきた。
 「……そっか。じゃ、早く回復しなきゃな」
 いつもと同じ、いや、いつも以上に陽気な口調だった。
 わざとらしいまでに明朗な声の響きが、カミュの心を激しく波立たせた。
 この願いは、二人が出会い共に過ごした時間を否定するものに他ならない。
 そんな酷な願いを突きつける以上、ミロを激怒させるのは当然だ。
 たとえ痛烈にののしられたとしても、カミュはその罵倒を甘んじて受ける覚悟ができていた。
 それでもミロは、笑ってみせる。
 怒りも悲しみも全て内に押し込めて、屈託のない快活な笑顔の仮面を被る。
 それも偏に、カミュのために。
 カミュは無言のまま部屋を後にした。
 一人になる時間が欲しいのは、自分だけではないはずだと思った。

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