無憂宮
 世界が色をなくした。
 モノクロの世界では、時までもがその速度を緩めるようだ。
 まるで腕が重い鉛になってしまったように、ことさらゆっくりとミロは腕を持ち上げ、腹から突き出ている黒い刃にその手を重ねた。
 ミロの手を振りほどこうとしたか、狂刃はわずかに身震いするように揺れ、その拍子に切っ先から雫が一つ、滴り落ちる。
 赤い。
 白黒だった視界に突如現れた色彩は、禍々しいほどの存在感を放ちカミュの瞳を釘付けにした。
 そこはかとなく金気を含みだした空気に混じり、かすかにミロの声がする。
 耳をすましてもしかとは聞き取れないほどのか細い声が誦するのは、古の異国のまじないか。
 囁きめいた呪詛が終わると、ミロの手の下の黒刃はぼろぼろと灰が崩れるように消えていった。
 しかしそれでも、地面を彩る紅点はそこにあるまま失せることはなく、そればかりかミロの体までもがみるみる朱に染まっていく。
 染色の速度とは比べ物にならないほどの時間をかけ、ミロは大儀そうに顔を上げた。
 言葉もなく瞠目するカミュと視線が合うと、ばつの悪そうな笑みを口元にかすかに漂わせる。
 だが、それも束の間。
 瞳から光が徐々に失われ、ミロはがくりと膝をついた。
 崩れ落ちるように倒れたミロの体から、赤黒い染みがじんわりと地面に広がっていく。
 カミュは叫んだ。
 再び声が出せるようになっていることにも、気づいてはいなかった。


 「……ミロ……!」
 響き渡る自分の悲鳴で、カミュは目を覚ました。
 夢か現かの判断がすぐにはつきかね、しばらく呆けたように瞬きを繰り返す。
 ぐっしょりと汗に濡れた額に貼り付く髪の感触が厭わしい。
 ただ、その不快感が、この世界は現実であるとの認識を与えてくれたのは確かだった。
 戸惑いながらも周囲を見渡すと、傍の椅子に腰をかけていた人物がこちらを覗き込んできた。
 透き通るような清冽な煌きを散りばめた白金髪の持ち主は、カミュのよく知る人だった。
 「ようやく気がついたかね」
 「シャカ……?」
 状況を把握できないまま、カミュはそろそろと起き上がった。
 自分をくるむ寝具の慣れ親しんだ肌触りから、ここは自分の寝室だということはすぐにわかった。
 しかし、シャカが家に来ているというのに、何故自分は客をもてなすこともせず暢気に眠っていたのか。
 我が事ながら理解に苦しんだカミュは、両手で顔を覆うとゆっくりと記憶を辿ろうとした。
 だが所詮は無駄なあがきだったようだ。
 記憶の回廊は目の前にかざした手すら見えないほどの濃霧に包まれてしまったようで、何一つとして思い出すことはできなかった。
 深酒の後のように、頭も身体も細胞の一つ一つに至るまでどんよりと重い。
 昨夜はシャカたちと酒宴でもしたのだろう。
 酔いつぶれた自分を彼らが寝室まで運んでくれたということか。
 全身を支配する倦怠感の理由をそう結論付けようとしたが、何か引っかかるものがあった。
 この安易な結末に落ち着こうとしたカミュを非難するように、胸の内がざわざわと騒ぎ出して鳴り止まない。
 真相を追究すべく、曖昧模糊とした思考が渋々ながらも活動を再開した。
 程なく、拭い去れない違和感がカミュの忘れてしまいたかった記憶の扉を無理やり開け放つ。
 目の前に、人形が打ち捨てられていた。
 赤いインクでも零したのか、鮮やかな紅に染まる衣装をまとった人形が。
 既視感がカミュの脳髄を針で突くように刺激した。
 心臓が途端に早鐘を打ち始める。
 違う。
 人形などではない。
 あれは、小人だ。
 小人の体を彩っていた不吉な色が、カミュの脳裏をさっとその一色に染め上げ、赤いフィルターのかけられた記憶の再生映像が、脳内の銀幕に唐突に映し出される。
 たった一人の観客であるカミュは、目をそらすことも耳を塞ぐことも許されず、ただひたすらその映写を見させられることとなった。
 倒れたミロを抱き上げた手が、生温かい血でぬるりと滑る。
 この小さな身体のどこにこれほどの血液が蓄えられていたのか。
 そう不思議に思いたくなるほどに傷口からはどくどくと血が溢れ出し、それと反比例するようにミロの顔が青ざめていく。
 自分の手の中で、命が消えようとしている。
 半狂乱になったカミュは、無我夢中で傷口を押さえ出血を止めようとした。
 それでも指の合間から溢れ出る血は一向に止まる気配がない。
 みるみるうちに血塗られていく自分の手を、カミュはがたがたと震えながらみつめていた。
 みつめることしか、できなかった。
 そこで、記憶が途切れた。
 「ミロ……」
 独り言のように呟くと、カミュは自分の両手に視線を落とした。
 シャカが綺麗に洗い落としてくれたらしく、爪の間にもどこにも血痕は見当たらない。
 しかし指に染み付いた血の臭いだけは、どうしても落としきれなかったようだ。
 鼻腔をかすかにかすめる独特の生臭さが、惨事の恐怖をまざまざと甦らせる。
 カミュはすがるようにシャカを見上げた。
 知りたいことは唯一つ。ミロの無事だけだ。
 ただ何からどう説明したらよいのか、自分も事態を把握していない以上、さっぱり見当がつかなかった。
 「……彼ならばムウが治療中だ」
 口を開きかけては閉じるカミュの必死の形相だけで、何を言わんとしているかを理解してくれたのだろう。
 おそらくムウがいるのであろう扉の彼方に目を遣りつつ、シャカはさらりと答えた。
 「私たちが駆けつけたときには、君も意識を失っていたのでね。悪いが君の記憶を読ませてもらった。なかなか難儀な傷だな、あれは」
 「……大丈夫なのか?」
 「さて。瘴気そのものによる受傷だからな。浄化はなかなか困難を極めそうだ」
 いつものことながら、シャカは事実を偽ることなく淡々とありのままに告げる。
 虚言を弄しない率直さは彼の美徳だが、今だけは恨めしかった。
 ミロが死線をさまよっている、その原因はカミュが作り出してしまったものだ。
 カミュが、ミロに瀕死の重傷を負わせたようなものだ。
 きゅっと唇をかみしめ俯くカミュに、シャカは少し語調を和らげて続けた。
 「だが、君も知っての通り、ムウは治癒の術に長けている。そのムウが必ず助けると言っているのだ、安心したまえ」
 カミュは俯いたまま返事もしなかった。
 労いの言葉をかけてもなおも無反応を貫くカミュを訝ったか、シャカは小首を傾げた。
 「君は、ムウを信用していないのかね」
 「そういう訳ではない。ただ……」
 ようやく顔を上げたカミュを、シャカの瞳が待ち受けていた。
 普段は瞼に閉ざされたシャカの瞳を見るのは久しぶりのことだった。
 霊山の奥深くに湧く神聖な泉のように澄んだ瞳が、カミュをじっとみつめる。
 シャカの清澄な瞳に映るのは、外観のような表層部分ではなく、その下に覆い隠されている心の在り処なのだろう。
 自分自身ですら理解していない心の奥底まで見透かされたような気がしたが、何故かその眼差しは不快ではなかった。
 むしろ人智を超越した至高の存在に見守られる安らぎのようなものさえ感じ、カミュは陶然と瞳を閉じた。
 激しく波立つカミュの心から徐々に陰性感情が吸い取られ、やがて静かな凪が訪れる。
 カミュは深々と一つ息を吐くと、シャカをみつめかえした。
 「ただ、私のせいで、ミロを傷つけてしまったから……」
 「君のせいとは異なことを言う。ミロは己が欲することをしたまでだ。君が気に病む必要はなかろう」
 穏やかな台詞の中、シャカの発音したとある一語がカミュの耳に鮮明に飛び込んできた。
 彼がミロの名を呼ぶのを初めて聞いた。
 ミロを、認めた、ということか。
 場違いな感慨に、カミュの口元がかすかに綻ぶ。
 和らいだカミュの表情に安堵したか、笑みを浮かべ再び瞳を閉ざしたシャカは、ついで揶揄するようにカミュに顔を向けた。
 「いや、やはり君が悪いのかもしれんな」
 突然の弾劾を受け脅えて顔を上げたカミュに、シャカは静かに糾弾を続けた。
 「なぜ、すぐに私たちに助けを請わなかったのかね」
 「それは……」
 異変に気づいたときには既に声を奪われていたのだから、助けを呼ぼうにも呼べなかったのだ。
 そう言いたげに眉を顰めるカミュに、シャカは慈愛に満ちた観音像のような柔和な微笑を浮かべた。
 「いや、君は確かに胸の内で助けを求めて叫んだはずだ。あれは、頼りにならない小人の名だったか」
 だからあの小人は真っ先に君の元に馳せ参じることができたのだよ、と、シャカは優美な微笑みを絶やさずに言葉を結んだ。
 カミュは無言のまま再び下を向いた。
 意味もなく毛布の端を指で手繰りながら、シャカに反論を試みようとあの悪夢のような一時を反芻する。
 どんなに記憶をまさぐっても、ミロの名を呼んだ覚えはなかった。
 だが迫りくる危機に直面し、無意識に誰かに助けを求めていたという可能性は否定しきれない。
 カミュの記憶を読みとったシャカがそう言うのなら、おそらく自分がミロを呼んだというのは事実なのだろう。
 それでもなお、残る疑問がひとつ。
 あの絶体絶命の状況下、どうして長年の友人ではなく知り合ったばかりの小人にすがったのか。
 理由はわからなかった。
 ただ、何故だか無性に恥ずかしくて、シャカの顔を見ることができなかった。

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