悪い夢をみているのだと思った。
しかし、夢だとわかっていても、感じる恐怖は現実のそれと変わりはない。
自分の影が独立した意思をもって動き出すなど、常人の理解の範囲を超えている。
そして、理屈で説明がつかないものほど、正体のわからないものほど、恐ろしいものはない。
だから、早く目覚めたかった。
夢魔が作り出した眼前の異様な光景から逃げ出し、安寧な日常の世界へと戻りたかった。
だが、それはどうやら叶わぬ望みだったようだ。
カミュが目にしているのは、残念ながらまごうことなき現実だった。
地面に張り付いていた影の中から、闇色の手がゆっくりと持ち上げられる。
二次元から三次元へと実体化しつつある影を、カミュは瞬きも忘れてみつめていた。
純然たる恐怖に、身体ばかりか思考まで麻痺させられてしまったようで、ただ瞳を見開くことしかできなかった。
動きを奪われた全身が、せめてもの抵抗を試みるように小刻みに震える。
しかし、そうしてわななく本体を、影は少しも反映しようとはしなかった。
地表に突き出した二本の腕は、序の舞でも舞うかのように、あくまでゆったりと優雅にその姿を顕わにしていく。
そこには、カミュが抱いているような骨の髄まで凍りつくような恐怖など、どこにもない。
むしろ、悦んでいる。
踏みつけにされるばかりで顧みられることのない影が、ようやく望みを叶えたのだ。
自らが主となり、新たな影を従える。
永遠の夢物語が現実になる、そのときが来た悦びに浸っているのだ。
消え入りそうにかすれるカミュの呼吸音だけが、不気味な沈黙の支配する世界に響き渡る。
すでに影は、長い腕のあらかたを地上に送り出していた。
影の両肩と思しき部分から空に向かって突き出された腕は、羽ばたく前触れのように今度は徐々に地面に向かって下ろされる。
空気を抑えこみつつ下降した掌が、地表を捕らえた。
じわじわと肘を曲げ掌を身体へと引き寄せると、地面を押し下げるように両の腕にぐっと力が込められる。
何のための動作か、考えるまでもなかった。
影が、起き上がろうとしているのだ。
頭が、顔が、肩が、地中から湧き起こるようにそろそろと漆黒の姿を現した。
視線をそらすこともできず、カミュはその一部始終を見せつけられていた。
あれは、私だ。
肩に落ちかかる長い髪も、その身体の輪郭も、鏡に映る自分の姿と寸分違わない。
違いは、色。
全ての光を無に転じる深く暗い闇に塗り込められた、その色だけ。
怖気と嫌悪、そしてやり場のない怒りに苛まれたカミュの胸に、錐をもみ込まれるような鋭い痛みが走る。
見据えることしかできないカミュの視線を全身に浴びながら、もう一人のカミュは上体を顕わにした。
一見したところ、濡れたように艶やかに光る黒御影石の胸像にしか見えない。
だが、それが彫像などではない決定的な証拠に、彼奴は緩慢にとはいえ動くのだ。
俯いていた黒い頭が、ことさらに時間をかけて持ち上げられる。
表情など、なかった。
のっぺりとしたその顔は、かろうじて中央に鼻らしき形状をとどめてはいるものの、目も口も何もない。
それでも、カミュにはわかった。
笑っている。
影が浮かべる満足気な笑みを見た気がした。
そして同時に、その笑いの意味するところも悟ってしまった。
絶望に駆られたカミュは、深い嘆息と共に瞳を閉じた。
影を、取られた。
本能的な恐怖が、我が身に降りかかる災厄を瞬時に読み取った。
このまま、カミュはこの身体の主としての地位を追われるのだろう。
影に呑みこまれ、意識までも封じられ、自分にとり憑いた妖魔が我が物顔で身体を支配する様を看過するしかなくなるのだ。
これからは、彼がカミュとなり、カミュが影となる。
記憶も知識も経験も全て抱いたまま、カミュは、この世から滅失する。
いやだ。
声にならない絶叫が迸った。
体の動きを封鎖され、感覚ですら徐々に蝕まれ、行き場をなくした激情は体内を駆け巡るしかない。
恐慌を来たしたカミュの悲痛な叫びは全身に溢れんばかりに充満し、内から彼を狂わせようとした。
その刹那。
「何やってんだよ、バカ」
緊迫感の欠片もない声がした。
この危機的状況にそぐわない揶揄を含んだ暢気な声には、崩壊寸前のカミュの意識をかろうじてつなぎ合わせる効果があった。
カミュは恐る恐る瞼を持ち上げた。
視界には、相も変わらず不気味な存在感を放つ黒いカミュの姿がある。
ただ先程までと異なることに、彼は正面のカミュではなく何か別のものに意識を奪われていた。
訝しげに傾けられた、その闇色の顔が向けられた先には。
「ま、こんなバカでも、今は俺のご主人さまなんでね」
不遜な台詞を口にしながら、ゆっくりと歩を進める小さな人影。
「悪いけど、貴様にこいつの影はやらない」
カミュとその影の間に割り込むように立ちはだかったのは、黄金の髪を煌かせた小人だった。
ちらりとカミュを見上げたミロは、いつものように口の端をにっと持ち上げて傲慢に笑うと、黒影に向き直った。
「相手が悪かったな。恨むなよ」
突如現れた小人を、影は視線で射殺さんとするごとく忌々しげにねめつける。
自分に注がれる不穏な眼差しに臆した風もなく、ミロは右手をすっと肩の高さに持ち上げた。
風もないのに、長い金髪がふわりと妖しげになびきだす。
蒼い瞳に、酷薄な光が宿った。
「恨むなら、カミュに手を出した自分を恨め!」
怒号が響き渡ると同時に、突き出されたミロの掌から真紅の光球が放たれる。
紅光は一瞬にして漆黒の闇を貫き、影は音もなく粉々に砕け散った。
割れた陶器のような影の破片は、地上に落下するや否や、地面に吸い込まれるように跡形もなく消えていく。
光球が描いた彗星の尾のような残像も見えなくなった頃には、カミュの影は元通り、ただの平面の存在に戻っていた。
「……おしまい」
掃討の威勢の名残もなく、戯れのようにパンパンと二度ほど手を打ち鳴らしたミロは、体ごと振り返るとカミュを仰ぎ見た。
「本当にバカだな、あんた。よっぽどぼうっとしてなきゃ、影なんて取られっこないのに」
口調だけは、相変わらずの人を人とも思わない居丈高なそれだ。
しかし常と異なることに、ミロの蒼い瞳はどこかおどおどとひっきりなしに揺れ動いていた。
しばらく落ち着きなく視線をそこかしこにさまよわせていたミロは、やがて意を決したように数歩前に足を踏み出すと、じっとカミュを見上げた。
「……ごめん、俺のせいだよな」
つい今しがた妖魔退治をやってのけた勇壮な戦士とも思えない、か細く頼りない声が零れた。
「俺があんなことしたから、怒ってたんだろ?」
少し寂しげに呟くと、ミロはつっと瞳を伏せた。
自分の軽挙な行動が遠因となって、間接的にとはいえ結果的にカミュを危険にさらしたという罪悪感。
意外と責任感の強いミロの内で後悔と自己嫌悪の嵐が暴れ狂っているのは、火を見るより明らかだ。
いつも自信過剰なミロらしくもない落ち込んだ表情に、カミュもまた罪悪感を覚えた。
少なくとも、ミロが来てくれたおかげで助かったのは事実だ。
だからそんなに気に病むことはないと、助けてくれてありがとうと、そう伝えようとカミュは口を開こうとした。
しかし、言葉は一つも出てこなかった。
意図に反し上手く舌が動かせず、吐息だけが虚しく唇から落とされる。
何故、まだ体が麻痺しているのだろう。
ミロが妖魔を倒し、カミュをその支配から解放したはずなのに。
疑問の答えを求めて、カミュは必死に手がかりを探し周囲に視線を走らせた。
その瞳が、視界にありえないものを捉え大きく見開く。
「なあ、何か言ってくれよ」
沈黙に耐えかねたか、ミロは再び俯いていた顔を上げた。
自分が見た異変を何とかしてミロに伝えるべく、カミュが瞳に力を込めて訴えようとした、その矢先だった。
だが、遅すぎた。
カミュが目にした、あってはならないもの。
地上にカミュの姿を刻む影の中から、漆黒の塊がむくりと鎌首をもたげる。
ミロに粉砕された魔物は、本来の影と同化するように地中に溶け込み身を潜めていただけだった。
魔影は鋭い剣のごとく細く長く姿を変え、小さなミロの身体を背後から突き刺していた。
しかし、夢だとわかっていても、感じる恐怖は現実のそれと変わりはない。
自分の影が独立した意思をもって動き出すなど、常人の理解の範囲を超えている。
そして、理屈で説明がつかないものほど、正体のわからないものほど、恐ろしいものはない。
だから、早く目覚めたかった。
夢魔が作り出した眼前の異様な光景から逃げ出し、安寧な日常の世界へと戻りたかった。
だが、それはどうやら叶わぬ望みだったようだ。
カミュが目にしているのは、残念ながらまごうことなき現実だった。
地面に張り付いていた影の中から、闇色の手がゆっくりと持ち上げられる。
二次元から三次元へと実体化しつつある影を、カミュは瞬きも忘れてみつめていた。
純然たる恐怖に、身体ばかりか思考まで麻痺させられてしまったようで、ただ瞳を見開くことしかできなかった。
動きを奪われた全身が、せめてもの抵抗を試みるように小刻みに震える。
しかし、そうしてわななく本体を、影は少しも反映しようとはしなかった。
地表に突き出した二本の腕は、序の舞でも舞うかのように、あくまでゆったりと優雅にその姿を顕わにしていく。
そこには、カミュが抱いているような骨の髄まで凍りつくような恐怖など、どこにもない。
むしろ、悦んでいる。
踏みつけにされるばかりで顧みられることのない影が、ようやく望みを叶えたのだ。
自らが主となり、新たな影を従える。
永遠の夢物語が現実になる、そのときが来た悦びに浸っているのだ。
消え入りそうにかすれるカミュの呼吸音だけが、不気味な沈黙の支配する世界に響き渡る。
すでに影は、長い腕のあらかたを地上に送り出していた。
影の両肩と思しき部分から空に向かって突き出された腕は、羽ばたく前触れのように今度は徐々に地面に向かって下ろされる。
空気を抑えこみつつ下降した掌が、地表を捕らえた。
じわじわと肘を曲げ掌を身体へと引き寄せると、地面を押し下げるように両の腕にぐっと力が込められる。
何のための動作か、考えるまでもなかった。
影が、起き上がろうとしているのだ。
頭が、顔が、肩が、地中から湧き起こるようにそろそろと漆黒の姿を現した。
視線をそらすこともできず、カミュはその一部始終を見せつけられていた。
あれは、私だ。
肩に落ちかかる長い髪も、その身体の輪郭も、鏡に映る自分の姿と寸分違わない。
違いは、色。
全ての光を無に転じる深く暗い闇に塗り込められた、その色だけ。
怖気と嫌悪、そしてやり場のない怒りに苛まれたカミュの胸に、錐をもみ込まれるような鋭い痛みが走る。
見据えることしかできないカミュの視線を全身に浴びながら、もう一人のカミュは上体を顕わにした。
一見したところ、濡れたように艶やかに光る黒御影石の胸像にしか見えない。
だが、それが彫像などではない決定的な証拠に、彼奴は緩慢にとはいえ動くのだ。
俯いていた黒い頭が、ことさらに時間をかけて持ち上げられる。
表情など、なかった。
のっぺりとしたその顔は、かろうじて中央に鼻らしき形状をとどめてはいるものの、目も口も何もない。
それでも、カミュにはわかった。
笑っている。
影が浮かべる満足気な笑みを見た気がした。
そして同時に、その笑いの意味するところも悟ってしまった。
絶望に駆られたカミュは、深い嘆息と共に瞳を閉じた。
影を、取られた。
本能的な恐怖が、我が身に降りかかる災厄を瞬時に読み取った。
このまま、カミュはこの身体の主としての地位を追われるのだろう。
影に呑みこまれ、意識までも封じられ、自分にとり憑いた妖魔が我が物顔で身体を支配する様を看過するしかなくなるのだ。
これからは、彼がカミュとなり、カミュが影となる。
記憶も知識も経験も全て抱いたまま、カミュは、この世から滅失する。
いやだ。
声にならない絶叫が迸った。
体の動きを封鎖され、感覚ですら徐々に蝕まれ、行き場をなくした激情は体内を駆け巡るしかない。
恐慌を来たしたカミュの悲痛な叫びは全身に溢れんばかりに充満し、内から彼を狂わせようとした。
その刹那。
「何やってんだよ、バカ」
緊迫感の欠片もない声がした。
この危機的状況にそぐわない揶揄を含んだ暢気な声には、崩壊寸前のカミュの意識をかろうじてつなぎ合わせる効果があった。
カミュは恐る恐る瞼を持ち上げた。
視界には、相も変わらず不気味な存在感を放つ黒いカミュの姿がある。
ただ先程までと異なることに、彼は正面のカミュではなく何か別のものに意識を奪われていた。
訝しげに傾けられた、その闇色の顔が向けられた先には。
「ま、こんなバカでも、今は俺のご主人さまなんでね」
不遜な台詞を口にしながら、ゆっくりと歩を進める小さな人影。
「悪いけど、貴様にこいつの影はやらない」
カミュとその影の間に割り込むように立ちはだかったのは、黄金の髪を煌かせた小人だった。
ちらりとカミュを見上げたミロは、いつものように口の端をにっと持ち上げて傲慢に笑うと、黒影に向き直った。
「相手が悪かったな。恨むなよ」
突如現れた小人を、影は視線で射殺さんとするごとく忌々しげにねめつける。
自分に注がれる不穏な眼差しに臆した風もなく、ミロは右手をすっと肩の高さに持ち上げた。
風もないのに、長い金髪がふわりと妖しげになびきだす。
蒼い瞳に、酷薄な光が宿った。
「恨むなら、カミュに手を出した自分を恨め!」
怒号が響き渡ると同時に、突き出されたミロの掌から真紅の光球が放たれる。
紅光は一瞬にして漆黒の闇を貫き、影は音もなく粉々に砕け散った。
割れた陶器のような影の破片は、地上に落下するや否や、地面に吸い込まれるように跡形もなく消えていく。
光球が描いた彗星の尾のような残像も見えなくなった頃には、カミュの影は元通り、ただの平面の存在に戻っていた。
「……おしまい」
掃討の威勢の名残もなく、戯れのようにパンパンと二度ほど手を打ち鳴らしたミロは、体ごと振り返るとカミュを仰ぎ見た。
「本当にバカだな、あんた。よっぽどぼうっとしてなきゃ、影なんて取られっこないのに」
口調だけは、相変わらずの人を人とも思わない居丈高なそれだ。
しかし常と異なることに、ミロの蒼い瞳はどこかおどおどとひっきりなしに揺れ動いていた。
しばらく落ち着きなく視線をそこかしこにさまよわせていたミロは、やがて意を決したように数歩前に足を踏み出すと、じっとカミュを見上げた。
「……ごめん、俺のせいだよな」
つい今しがた妖魔退治をやってのけた勇壮な戦士とも思えない、か細く頼りない声が零れた。
「俺があんなことしたから、怒ってたんだろ?」
少し寂しげに呟くと、ミロはつっと瞳を伏せた。
自分の軽挙な行動が遠因となって、間接的にとはいえ結果的にカミュを危険にさらしたという罪悪感。
意外と責任感の強いミロの内で後悔と自己嫌悪の嵐が暴れ狂っているのは、火を見るより明らかだ。
いつも自信過剰なミロらしくもない落ち込んだ表情に、カミュもまた罪悪感を覚えた。
少なくとも、ミロが来てくれたおかげで助かったのは事実だ。
だからそんなに気に病むことはないと、助けてくれてありがとうと、そう伝えようとカミュは口を開こうとした。
しかし、言葉は一つも出てこなかった。
意図に反し上手く舌が動かせず、吐息だけが虚しく唇から落とされる。
何故、まだ体が麻痺しているのだろう。
ミロが妖魔を倒し、カミュをその支配から解放したはずなのに。
疑問の答えを求めて、カミュは必死に手がかりを探し周囲に視線を走らせた。
その瞳が、視界にありえないものを捉え大きく見開く。
「なあ、何か言ってくれよ」
沈黙に耐えかねたか、ミロは再び俯いていた顔を上げた。
自分が見た異変を何とかしてミロに伝えるべく、カミュが瞳に力を込めて訴えようとした、その矢先だった。
だが、遅すぎた。
カミュが目にした、あってはならないもの。
地上にカミュの姿を刻む影の中から、漆黒の塊がむくりと鎌首をもたげる。
ミロに粉砕された魔物は、本来の影と同化するように地中に溶け込み身を潜めていただけだった。
魔影は鋭い剣のごとく細く長く姿を変え、小さなミロの身体を背後から突き刺していた。