無憂宮
 地平線に近づきつつある太陽は、一日の集大成として空を茜色に染め上げる作業にいそしんでいた。
 昼と夜、二つの寒色の合間に、明らかに系統の異なる暖色の空を経由するのは、地上の人間に昼から夜への移行を視覚的にも理解させるべく、天空が編み出した技術なのかもしれない。
 しかし、そのような天恵にも、全く注意を払わない者もいた。
 刻一刻と変わりゆく色鮮やかな空に見惚れるどころか、視界にも入れまいと拒絶するごとく、じっと目線を足元に向けたままの人間が、ひとり。
 カミュだ。
 家を出てはみたもののどこにも行く当てのなかったカミュは、うろうろとさまよった挙句、公園のベンチにぼんやりと腰を下ろしていた。
 紅い髪が夕日を浴びてさらに燃え立つように輝いていることにも、地面に伸びる影が随分成長したことにも気づかず、ただ黙然と俯いたまま座り込む。
 微動だにしないオブジェのようなその姿に、胡乱気な視線を投げかけつつ傍を通り過ぎる人もいたが、深い内省に囚われたカミュは一向に頓着なかった。
 先日来の突飛な現象にも追行できたカミュの思考能力は、ここにきてとうとう破綻を来たしてしまったようだ。
 今日は、それほどまでに多くの出来事に遭遇しすぎた。
 言語化しないまま脳裏に断片的に浮かび上がる記憶の映像だけが、時折カミュの意識を刺激する。
 突如もたらされた自身の仕事上の転機と、今は亡き最愛の人からの思いがけない贈り物。
 その上、ミロだ。
 小人のはずの彼は、束の間とはいえ人間の姿に戻り、そして……。
 俺じゃ、駄目か。
 耳元に熱く囁かれた台詞が生々しく甦り、カミュはわずかに身を震わせた。
 掌に乗るような小人の彼に馴染んでいたため、すっかり忘れていた。
 ミロは元々は人間、それもカミュよりもはるかに剛健な体躯を持つ大人の男なのだ。
 泣き崩れる自分をずっと抱きしめていたのは、サガではなく、ミロ。
 剥き出しの欲望をカミュにぶつけようとしたのも、ミロだった。
 これから、どうすればよいのだろう。
 途方に暮れたカミュは、無意識に爪に歯を立てながら考えた。いや、考えようとした。
 小人に戻ったミロと、今までどおりの共同生活を送ることができるのか。
 何事もなかったように軽口を叩きながら会話ができるのか。
 自信は、無かった。
 既にカミュは知ってしまった。
 当のミロですら気づかないほど胸の奥底に秘められていた、彼の想いを。
 これまでのような、愛玩動物に対するがごとき態度を続けられるはずもなかった。
 それは、自分に好意を向けてくれている彼に対し、あまりに酷で、あまりに非礼だ。
 どうすれば、よいのだろう。
 幾度自分に問いかけてみても、答えの糸口すら見つからない。
 どう、すれば。
 考えれば考えるほど、迷宮の奥深くに迷い込んでいくような気さえする。
 この状況に陥った自分は、なかなか救いがたいものがあることも自覚していた。
 かつてはよくあることだった。
 それが対人関係のトラブルでも仕事上の問題でも、直面する課題の解決方法を見つけあぐねては、堂々巡りの思考のループに陥り頭を抱えていた。
 一人でパニックに襲われ周章狼狽する自分を、サガはその度に穏やかな声で諭してくれたものだ。
 思いきって行動してみれば道は自ずと開けるものだよ、と。
 そう言いながらカミュの背をぽんと押してくれる手は、もうどこにも無い。
 しかし、その言葉は、確かにカミュの中に生き続けていた。
 カミュは何かを断ち切るように深々と息をついた。
 とりあえず、家に帰ろう。
 サガの教えを実践するのなら、こんな所でいつまでも時間を浪費しているわけにはいかない。
 まずは、もう一度、ミロと向き合う。
 全てはそこから、だ。
 ぐっと手を握り締めたカミュは、家路に着くべく立ち上がろうとした。
 異変に気づいたのは、そのときだ。
 立てない。
 瞳が不信に見開かれる。
 あまりに同じ姿勢で居続けたがために足が一時的に萎えたのかとも思ったが、違うらしい。
 どんなに足に力を込めても、下肢の自由が全く効かなかった。
 自分の身体でありながら、脚は地面に深く根付いてしまったようで、立ち上がるどころか動かすことすらあたわない。
 訳もわからぬ恐怖に突き動かされ、カミュは慌しく周囲に目を走らせた。
 公園で賑やかに遊んでいた子供たちは、いつのまにかいなくなっていた。
 夕闇の深まるこの時間帯、普段ならば行き交う人の姿が散見されるはずなのだが、何故か今は誰一人として見当たらない。
 瞳に映るは、吹き抜ける風にざわざわと葉を鳴らす木々と、えもいわれぬ艶美な色彩に染まる空、そして、地面を黒く塗りつぶす自分の   影。
 影。
 カミュの喉の奥で、冷たい息がひゅっと鳴った。
 思い出した。
 ちょうどこんな昼夜の端境の一時に、ムウと帰り道を急いでいたときのことだ。
 影踏み遊びに興じる子供たちを横目で見ながら、ムウがぽつんと落とした言葉が、そのときやけに耳に引っかかった。
 「……あまり勧められた遊びではありませんね」
 訝るカミュに、ムウはわずかに瞳を伏しつつ言葉をつなげた。
 「逢魔時の影踏みですよ。鬼に、影を取られることになる。そうなれば、器まで容易く支配されてしまうのですけどね」
 「器?」
 「影を作り出している身体です。黄昏時の影は長く伸びますからね。人に憑こうとする魔物には好都合なのですよ」
 そこで一旦言葉を切ると、ムウは本気とも冗談ともつかない瞳でカミュをみつめ、あなたも気をつけることです、と、この話題を締めくくった。
 不可解な異世界は、ムウやシャカはともかく自分には縁のないものだ。
 そう思っていたカミュも、それきり話を蒸し返すこともなかった。
 すっかり記憶の片隅に打ち捨てられていた光景。
 それが、身を震わすような恐怖と共に、じわじわと甦ってきた。
 もし、あのムウの言葉が、嘘偽りのない真実だったとしたら。
 この、意のままにならない硬直した身体の原因が、ムウの危惧したとおりなら。
 太陽が姿を隠そうとする間際、無防備に影が伸びるがままに放置していたカミュは、重大な過ちを犯したことになる。
 自己のおかれた状況を、カミュは半信半疑ながらもようやく理解した。
 一気に周囲の酸素が薄くなったようだ。
 激しく高鳴り始めた心臓の音が、頭痛を引き起こすほど頭蓋内に反響する。
 呼吸すら困難になってきた。
 既にカミュの身体を蝕む麻痺は上体に広がりつつあり、自分の意思支配が及ぶのは感覚器しかない。
 そのわずかに自由が残された瞳で、カミュは自らの影をひしと凝視した。
 主にみつめられていることを悟ったか。
 動きを封じられたはずのカミュの影が、のそりと動いた。

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