泣く、という行為は、存外に体力を消耗するものだ。
恥も外聞も無く号泣したことによる疲労と羞恥が、カミュの理性に働きかけたのだろう。
瞼を腫らすほどに一頻り涙を流させた涙腺は、ようやく分泌を抑えるつもりになったらしい。
涙液中に含まれるエンケファリンの沈静効果も幸してか、カミュはなんとか落ち着きを取り戻しつつあった。
「ありがとう、ミロ。もう、大丈夫だから……」
ミロの胸に預けていた頭をゆるゆると起こしたカミュは、背に回された腕から抜け出そうとした。
しかし、カミュを抱きしめる腕は解けない。
それどころかミロの腕は、カミュの身体を拘束する輪をますますぎゅっと縮めてくる。
「……ミロ?」
厚く垂れ下がる黄金の髪に覆い隠され、ミロの表情は読み取れない。
予想外のミロの反応に、訳もわからずまばたきを繰り返したカミュは、訝しさに包まれつつも小さな声で呼びかけてみた。
「……俺じゃ、駄目か?」
「え?」
思い詰めたように落とされた囁き声の意味を量りかね、カミュは動きを奪われた身体をよじり、せめてミロと視線を合わせようとした。
ところがミロは、そんなかすかな動作ですら封じようとするかのようにカミュを抱く腕に力を込め、続けてぼそりと呟く。
「俺じゃ、サガの代わりになれない?」
サガの、代わり?
まだ散漫な思考の中、カミュは必死に言葉をかき集め、ミロが何を言わんとしているのか懸命に推し量ろうとした。
慟哭する自分に黙ってその胸を貸し、ミロは充分サガの代わりにカミュを慰めてくれた。
そう礼を言えば、彼は安堵するのだろうか。
この、痛いほどに激しく伝わってくるミロの心臓の鼓動を少しでも安定させるために、自分には何ができるのだろう。
しばらく考えていたカミュの口元に、やがてくすりと笑みが浮かぶ。
ミロが求めるものが、わかった気がした。
身体は大きくなっても、やはり性質は小人のままということか。
恐らくミロは、頑張ってカミュの役に立とうとした自分を褒めてもらいたいのだ。
もっと自分を認めてくれと訴える、自己顕示欲の強い子供のような稚気が、いかにも彼らしい。
そう結論を下したカミュは、とりあえず感謝の念を伝えようとミロを見上げた。
もっともこの仰視は、カミュの意思に基づく動作というだけではなかった。
顎にかけられたミロの指が、くいとカミュの顔を上向かせていた。
突如外部から加えられた力に翻弄され、自身に対する主導権すら見失いかけたカミュを混乱が襲う。
「ミ……」
紅い瞳が、見開いた。
ミロが、動いた。
顔が近づく。
ゆっくりと、二人の間の距離が狭められる。
頬にかかる熱い吐息は、痺れ薬のようにカミュの全身を硬直させた。
ミロが、何をしようとしているのか。
それがわからないほど、カミュは子供ではなかった。
ただ、驚愕のあまり放心し、身体が麻痺したように動けなくなっていた。
カミュが知るミロは、陽気でいつも楽しげに笑っている、ポケットに入るほどの小人だった。
こんな、熱情に駆られた雄の光を瞳に宿した、大人の男では、ない。
眼前の光景は、どこか絵空言のように現実感を欠いていた。
蜘蛛の巣に絡めとられた蝶は、己の運命を悟ったが故ではなく、事態を夢にしてしまいたいがために抵抗を止めるのかもしれない。
急展開する事態から逃避したまま、カミュは無抵抗な蝶のごとく、間近に迫り来るミロをじっとみつめていた。
唇が、重なろうとした。
が、その寸前、薄紙一枚ほどの距離まで接近したミロは、突如弾かれるようにカミュから離れた。
「ごめん、呪文の効果がきれる!」
悲鳴のように言い捨てると、脱兎のごとく走り去る。
遠ざかるその後ろ姿を、カミュは茫然と見送った。
視界に入るありとあらゆる物が、再び巨大化した。
呪文の失効と共に小人に戻ったミロは、救いようのない自己嫌悪の只中に落ちていた。
人間に姿を変えたのは、悲嘆にくれるカミュを慰める、ただそれだけの目的のはずだった。
今の姿では、カミュを支えてやることもできない。
だから、彼を抱きしめてあげられるだけの強い腕が欲しかった。
本当に、それだけだったのだ。
それなのに、久々に人間の姿に戻ったミロは、同時にすっかり忘れ去っていた感情の正体までも思い出してしまった。
腕の中で号泣するカミュは、小人の自分が思っていたよりもはるかに華奢で、どうしようもない程に庇護欲をかきたてられた。
ずっとこのまま抱きしめていたいと願ってしまった。
このところカミュに対して感じる奇妙な感覚が愛おしさなのだと気づいてしまった。
いつの間にか、自分はカミュに恋をしていた。
小人と人間という全く異種の存在であるがゆえに、数百年もの長い間恋情とは無縁だった。
そのために、今までそんな簡単な事実にすら思いが至らなかったのだ。
泣き止んだカミュが腕の中から離れようとしたとき、無意識下で抑制され続けた想いは弾け、衝動的な欲望が迸った。
結果、動揺するカミュの隙をつき、唇を奪おうとさえしてしまった。
脅えたように愕然と見開く紅い瞳が、まざまざと思い返される。
一体これから、どんな顔をしてカミュに会えばよいのだろう。
こんな不埒な行為に及ぼうとしたミロを、カミュはまだ傍においてくれるのだろうか。
自業自得とはいえ取り返しのつかない愚行に、後悔の嵐が情け容赦も無くミロを苛む。
どれほどの間、そうしていただろう。
文字通り頭を抱えて自虐に耐えていたミロは、ふと気配を感じ顔を上げた。
廊下を過ぎる影が、空気にかすかな流れを生んでいた。
部屋の戸口まで歩み寄り、恐る恐る廊下を覗く。
突き当たりに見える玄関の扉が、ゆっくりと閉まりつつあった。
その向こう、外界では、紅の背が無言のまま遠ざかっていく。
行き先も告げず外出するカミュの後ろ姿を隠すように、やがてその扉は重々しい音を立てて元ある位置に戻った。
残響が、立ち尽くすミロの胸にずしんと響く。
彼は人間、自分は小人。
たった一枚の扉が、カミュとミロを絶望的に隔絶する乗り越えがたい障壁の具象化であるかのように、厚く立ちはだかっていた。
恥も外聞も無く号泣したことによる疲労と羞恥が、カミュの理性に働きかけたのだろう。
瞼を腫らすほどに一頻り涙を流させた涙腺は、ようやく分泌を抑えるつもりになったらしい。
涙液中に含まれるエンケファリンの沈静効果も幸してか、カミュはなんとか落ち着きを取り戻しつつあった。
「ありがとう、ミロ。もう、大丈夫だから……」
ミロの胸に預けていた頭をゆるゆると起こしたカミュは、背に回された腕から抜け出そうとした。
しかし、カミュを抱きしめる腕は解けない。
それどころかミロの腕は、カミュの身体を拘束する輪をますますぎゅっと縮めてくる。
「……ミロ?」
厚く垂れ下がる黄金の髪に覆い隠され、ミロの表情は読み取れない。
予想外のミロの反応に、訳もわからずまばたきを繰り返したカミュは、訝しさに包まれつつも小さな声で呼びかけてみた。
「……俺じゃ、駄目か?」
「え?」
思い詰めたように落とされた囁き声の意味を量りかね、カミュは動きを奪われた身体をよじり、せめてミロと視線を合わせようとした。
ところがミロは、そんなかすかな動作ですら封じようとするかのようにカミュを抱く腕に力を込め、続けてぼそりと呟く。
「俺じゃ、サガの代わりになれない?」
サガの、代わり?
まだ散漫な思考の中、カミュは必死に言葉をかき集め、ミロが何を言わんとしているのか懸命に推し量ろうとした。
慟哭する自分に黙ってその胸を貸し、ミロは充分サガの代わりにカミュを慰めてくれた。
そう礼を言えば、彼は安堵するのだろうか。
この、痛いほどに激しく伝わってくるミロの心臓の鼓動を少しでも安定させるために、自分には何ができるのだろう。
しばらく考えていたカミュの口元に、やがてくすりと笑みが浮かぶ。
ミロが求めるものが、わかった気がした。
身体は大きくなっても、やはり性質は小人のままということか。
恐らくミロは、頑張ってカミュの役に立とうとした自分を褒めてもらいたいのだ。
もっと自分を認めてくれと訴える、自己顕示欲の強い子供のような稚気が、いかにも彼らしい。
そう結論を下したカミュは、とりあえず感謝の念を伝えようとミロを見上げた。
もっともこの仰視は、カミュの意思に基づく動作というだけではなかった。
顎にかけられたミロの指が、くいとカミュの顔を上向かせていた。
突如外部から加えられた力に翻弄され、自身に対する主導権すら見失いかけたカミュを混乱が襲う。
「ミ……」
紅い瞳が、見開いた。
ミロが、動いた。
顔が近づく。
ゆっくりと、二人の間の距離が狭められる。
頬にかかる熱い吐息は、痺れ薬のようにカミュの全身を硬直させた。
ミロが、何をしようとしているのか。
それがわからないほど、カミュは子供ではなかった。
ただ、驚愕のあまり放心し、身体が麻痺したように動けなくなっていた。
カミュが知るミロは、陽気でいつも楽しげに笑っている、ポケットに入るほどの小人だった。
こんな、熱情に駆られた雄の光を瞳に宿した、大人の男では、ない。
眼前の光景は、どこか絵空言のように現実感を欠いていた。
蜘蛛の巣に絡めとられた蝶は、己の運命を悟ったが故ではなく、事態を夢にしてしまいたいがために抵抗を止めるのかもしれない。
急展開する事態から逃避したまま、カミュは無抵抗な蝶のごとく、間近に迫り来るミロをじっとみつめていた。
唇が、重なろうとした。
が、その寸前、薄紙一枚ほどの距離まで接近したミロは、突如弾かれるようにカミュから離れた。
「ごめん、呪文の効果がきれる!」
悲鳴のように言い捨てると、脱兎のごとく走り去る。
遠ざかるその後ろ姿を、カミュは茫然と見送った。
視界に入るありとあらゆる物が、再び巨大化した。
呪文の失効と共に小人に戻ったミロは、救いようのない自己嫌悪の只中に落ちていた。
人間に姿を変えたのは、悲嘆にくれるカミュを慰める、ただそれだけの目的のはずだった。
今の姿では、カミュを支えてやることもできない。
だから、彼を抱きしめてあげられるだけの強い腕が欲しかった。
本当に、それだけだったのだ。
それなのに、久々に人間の姿に戻ったミロは、同時にすっかり忘れ去っていた感情の正体までも思い出してしまった。
腕の中で号泣するカミュは、小人の自分が思っていたよりもはるかに華奢で、どうしようもない程に庇護欲をかきたてられた。
ずっとこのまま抱きしめていたいと願ってしまった。
このところカミュに対して感じる奇妙な感覚が愛おしさなのだと気づいてしまった。
いつの間にか、自分はカミュに恋をしていた。
小人と人間という全く異種の存在であるがゆえに、数百年もの長い間恋情とは無縁だった。
そのために、今までそんな簡単な事実にすら思いが至らなかったのだ。
泣き止んだカミュが腕の中から離れようとしたとき、無意識下で抑制され続けた想いは弾け、衝動的な欲望が迸った。
結果、動揺するカミュの隙をつき、唇を奪おうとさえしてしまった。
脅えたように愕然と見開く紅い瞳が、まざまざと思い返される。
一体これから、どんな顔をしてカミュに会えばよいのだろう。
こんな不埒な行為に及ぼうとしたミロを、カミュはまだ傍においてくれるのだろうか。
自業自得とはいえ取り返しのつかない愚行に、後悔の嵐が情け容赦も無くミロを苛む。
どれほどの間、そうしていただろう。
文字通り頭を抱えて自虐に耐えていたミロは、ふと気配を感じ顔を上げた。
廊下を過ぎる影が、空気にかすかな流れを生んでいた。
部屋の戸口まで歩み寄り、恐る恐る廊下を覗く。
突き当たりに見える玄関の扉が、ゆっくりと閉まりつつあった。
その向こう、外界では、紅の背が無言のまま遠ざかっていく。
行き先も告げず外出するカミュの後ろ姿を隠すように、やがてその扉は重々しい音を立てて元ある位置に戻った。
残響が、立ち尽くすミロの胸にずしんと響く。
彼は人間、自分は小人。
たった一枚の扉が、カミュとミロを絶望的に隔絶する乗り越えがたい障壁の具象化であるかのように、厚く立ちはだかっていた。