エレベーターの扉が自動的に閉まるまでの数秒も、家のドアが自然に閉じるまでの間ですらも、もどかしい。
帰宅したカミュは、そんなじれったげな表情を浮かべつつ強引に扉を閉めると、室内を足早に横切っていった。
どちらかというと、カミュの普段の動作は、ゆったりと落ち着いているほうだ。
その彼ににつかわしくない慌しさは、隠し切れない緊張がなせる業だろうか。
仕事先で何か受け取って以来、カミュの心拍数は尋常ではない数値を示していた。
ポケットの隙間から覗き見たカミュの表情はあまりに強張っていて、声をかけるのもはばかられた。
今もミロがポケットの中にいることなど、すっかり忘却の彼方なのだろう。
そうして急ぎ歩んでいたカミュの足は、ミロが’開かずの間’と密かに呼んでいた部屋の前で止まった。
肺胞の中の空気までも空にしようとするかのごとく深々と息を吐くと、きゅっと唇を噛みしめ、静かに扉を開ける。
締め切られた部屋の空気が、突然の侵入者に動揺したように漂いだした。
初めて入る部屋に好奇心を抑えきれなくなったミロは、カミュのポケットからぴょこんと首を出して周囲を見渡した。
ブラインドの閉められたままの薄暗い室内は、天井まで届く書棚に壁をすっかり埋め尽くされている。
その書棚と書棚の間、大きな窓に切り取られた一角には、マホガニー製の重厚な机が鎮座していた。
整然と片付けられた机上にはうっすらと埃が積もり、その使用者の不在が長きに渡ることを告げていた。
あの人の書斎、か。
既にこの世にはいない人の息づかいが感じられるような気がして、ミロはわずかに身をすくめた。
そんなミロの様子になど少しも注意を払わず、カミュはつかつかと机に歩み寄った。
一歩近づくにつれ、カミュの心臓は過剰なほどの収縮を繰り返し、呼吸すら苦しげになる。
何を言ってよいのかもわからず、ミロはただ、緊張に襲われるカミュを気遣わしく見上げていた。
やがて、カミュの震える手が、先程渡されたばかりの小さな物体を取り出す。
机の一番上の引き出し。
シュラはその鍵だと言っていたか。
鍵穴に差し込んだ鍵が、ゆっくりと回される。
かちりと錠が外れる音が、静かな室内に妙に存在感を伴って響いた。
ここにあるのは、サガからカミュへの最後のメッセージ。
何となく、他人が見てはならない気がする。
興味が無いわけではなかったが、ミロはポケットの中に潜り込むと膝を抱えて俯いた。
見えない世界では、音しか頼るものがない。
視界を絶たれた反動か、聴覚が一層鋭敏になったような錯覚を覚えた。
想像される音源が、映像となってミロの脳裏に映し出される。
引き出しが開けられる音。
小さな……箱だろうか、取り出された軽そうな物を机上に置く音。
包装紙を剥がしているのだろう、紙が擦れる音。
カミュが、胸を突かれたように息を呑む音。
それっきり、何の音もしなくなった。
目から飛び込む情報が奪われた中、耳が痛いほどの静寂は、ただ不安を煽るだけだ。
しばらくじっと我慢していたミロも耐え切れなくなり、そろそろと顔を覗かせた。
「……どうしたの?」
見上げた先に、はらはらと涙を流すカミュの顔があった。
頬を零れる涙が、光を浴びた宝石のように綺羅綺羅と輝いて見える。
場違いなことは承知しつつも、思わずその美しさに見惚れるミロの視線の中、カミュは泣き笑いのような表情をして、忽然と床に崩れ落ちた。
外に這い出たミロは、ただ茫然と泣き崩れるカミュを見上げた。
涙が一粒、大粒の雨のようにミロの足元の床を濡らす。
「カミュ……?」
何とか事態の把握に努めようと、ミロはカミュが両手でひしと握り締めている細長い物に目をやった。
ミロには何の変哲もない物体にしか見えないのだが、室内に入るまで、カミュの手にはあの小さな鍵以外何も無かったはずだ。
この状況では、それがカミュの涙の原因と考えざるをえない。
「何、それ? ……ペン?」
カミュはこくりと頷いた。
頬を涙で濡らし、小さな子供のようにしゃくりあげながら、それでもカミュは微笑んだ。
「すごいんだよ、この万年筆。年に数十本しか作らないっていう職人さんの作品なんだ」
言葉は途切れ途切れではあったが、カミュはどこか自慢するように誇らしげに語った。
サガ愛用の万年筆に、ずっと憧れていたこと。
紙に吸い付くような滑らかな書き味と、洗練されたフォルムの優美さは、それを手にしたサガの流麗な筆致とあいまって、ただの筆記具として片付けられない魅力を持っていた。
そしてある日、あまりに羨ましがるカミュに根負けしたか、サガはカミュに約束してくれたのだという。
「では、君が初めて本を出すことになったら、プレゼントしよう。そのかわり、その万年筆でサインした本を私にくれないか」
そう言って悪戯っぽく微笑んだサガが差し出した小指に、カミュは少しふて腐れながら指を絡めた。
形ばかりの誓約の儀式。
自分が訳した本を出版することなど、夢のまた夢だった頃。
この提案も、体よくカミュをあしらうための方便としか思えなかった。
しかし、サガはひそかに手筈を整えていたのだ。
カミュの華奢な手に合う細身の軸に、カミュの好きな青灰のインク。
カミュの名を刻印したこの万年筆を、いつのまにか用意してくれていたのだ。
いつの日か、カミュの夢が叶うことを信じて。
祝いの言葉と共にこの贈り物を渡すときを、楽しみに待ち望んで。
「サガがこんなことしてくれてたなんて、全然知らなかった……。ずるいよね。もう、お礼を言うこともできないのに……」
再び、カミュの瞳からとめどなく涙が溢れだした。
ミロは無言のまま、じっと泣き崩れるカミュをみつめていた。
すすり泣きの声だけが、室内に重苦しく充満する。
やがて、涙にくれるカミュを一人残し、ミロは静かに部屋を後にした。
体中の水分を全て涙にしても、まだ足りない気がした。
どこまでサガは自分を泣かせるつもりなのだろう。
突然カミュの前から姿を消して、あれほどの涙を流させただけでは飽き足らなかったのか。
この世を去ってからも、なおもこんな予期せぬトリックを仕掛け、カミュを泣かせて楽しんでいるのかとさえ思われた。
もちろん、そんなことはありえないとわかっている。
優しいサガは、こんなとき、むしろカミュが泣き止むように、そっと抱きしめてくれるはずだった。
サガの大きい手に髪を撫でられ、ゆっくりとした心臓の拍動が響く広い胸に顔をうずめる。
そうしていると、全てから守られているようで、まるで赤子に返ったように安心し、いつしか涙も乾くのが常だった。
しかし、今は、違う。
抱き寄せてくれる優しい腕も、慰めてくれる穏やかな声も、カミュを受け止めてくれる温かい胸も、どこにも、ない。
カミュの涙を止める、魔法はない。
ただ、一人で泣き濡れるだけ。
たった、独りで。
「……サガ……」
傍にいて欲しい。
サガが傍にいてくれたら。
そうしたら、涙もおさまるのに。
このままでは、流した涙に溺れてしまう。
それもよいか、と、口元を自嘲的な笑いの形に歪めて、カミュは泣き濡れた顔を両手で覆った。
そのとき。
ぬくもりを、感じた。
誰かの温かい腕が自分を抱きしめているのだと、理解するのにかなりの時間を要した。
……サガ……である、はずがない。
でも、背に回された腕は優しく、抱き寄せられた胸は広く、まるでサガの腕の中にいるようで。
カミュは訝しさと共に瞳を開けた。
目の前に、輝く黄金の波が広がっていた。
「……え……?」
茫然と瞳を瞬かせるカミュに、聞き慣れた声が降ってきた。
「……泣くなよ」
この声は……。
カミュはわずかに顔をよじって、声の主を見た。
豊かに波打つ金髪の……。
「……ミ……ロ……?」
悪戯っぽく輝く蒼い瞳、不敵な笑みを刻む口元、癖の強い艶やかな黄金の髪。
この持ち主に、見覚えがある。
ただ、彼は、もっとずっとずっと小さいはずだ。
掌に乗るような小人の彼が、どうして自分を抱きしめているのだろう。
何故、自分と同じ人間の姿となって、カミュを両の腕に閉じ込めているのだろう。
思考が現実に追いつかず、ただあっけにとられるカミュに、ミロは少し照れくさそうに笑った。
「ちょっとだけ、魔法で人間に戻ってみた。カミュの気がすむまでこうしててやるから、思いっきり泣いていいよ。だから、早く泣き止んで」
あんたの泣き顔はもう見飽きたから、と、冗談めかして片目を閉じると、ミロはカミュの頭をぐいと自分の胸に引き寄せた。
そのまま子供をあやすように、何度も何度も優しく頭を撫でられる。
久方振りに味わう髪を梳き撫でる大きな掌の感触に、昔日が甦った。
泣いていいよ……。
その言葉が、天上からの声に聞こえた。
今はもう亡きサガが、ミロの姿を借りて降りてきてくれた。
そう、信じた。
こくりと小さく頷いたカミュは、遠慮の欠片も無くミロに縋りついた。
カミュは、泣いた。
ミロの胸に顔を埋め、幼い子供のように大きな声を上げて、泣き続けた。
帰宅したカミュは、そんなじれったげな表情を浮かべつつ強引に扉を閉めると、室内を足早に横切っていった。
どちらかというと、カミュの普段の動作は、ゆったりと落ち着いているほうだ。
その彼ににつかわしくない慌しさは、隠し切れない緊張がなせる業だろうか。
仕事先で何か受け取って以来、カミュの心拍数は尋常ではない数値を示していた。
ポケットの隙間から覗き見たカミュの表情はあまりに強張っていて、声をかけるのもはばかられた。
今もミロがポケットの中にいることなど、すっかり忘却の彼方なのだろう。
そうして急ぎ歩んでいたカミュの足は、ミロが’開かずの間’と密かに呼んでいた部屋の前で止まった。
肺胞の中の空気までも空にしようとするかのごとく深々と息を吐くと、きゅっと唇を噛みしめ、静かに扉を開ける。
締め切られた部屋の空気が、突然の侵入者に動揺したように漂いだした。
初めて入る部屋に好奇心を抑えきれなくなったミロは、カミュのポケットからぴょこんと首を出して周囲を見渡した。
ブラインドの閉められたままの薄暗い室内は、天井まで届く書棚に壁をすっかり埋め尽くされている。
その書棚と書棚の間、大きな窓に切り取られた一角には、マホガニー製の重厚な机が鎮座していた。
整然と片付けられた机上にはうっすらと埃が積もり、その使用者の不在が長きに渡ることを告げていた。
あの人の書斎、か。
既にこの世にはいない人の息づかいが感じられるような気がして、ミロはわずかに身をすくめた。
そんなミロの様子になど少しも注意を払わず、カミュはつかつかと机に歩み寄った。
一歩近づくにつれ、カミュの心臓は過剰なほどの収縮を繰り返し、呼吸すら苦しげになる。
何を言ってよいのかもわからず、ミロはただ、緊張に襲われるカミュを気遣わしく見上げていた。
やがて、カミュの震える手が、先程渡されたばかりの小さな物体を取り出す。
机の一番上の引き出し。
シュラはその鍵だと言っていたか。
鍵穴に差し込んだ鍵が、ゆっくりと回される。
かちりと錠が外れる音が、静かな室内に妙に存在感を伴って響いた。
ここにあるのは、サガからカミュへの最後のメッセージ。
何となく、他人が見てはならない気がする。
興味が無いわけではなかったが、ミロはポケットの中に潜り込むと膝を抱えて俯いた。
見えない世界では、音しか頼るものがない。
視界を絶たれた反動か、聴覚が一層鋭敏になったような錯覚を覚えた。
想像される音源が、映像となってミロの脳裏に映し出される。
引き出しが開けられる音。
小さな……箱だろうか、取り出された軽そうな物を机上に置く音。
包装紙を剥がしているのだろう、紙が擦れる音。
カミュが、胸を突かれたように息を呑む音。
それっきり、何の音もしなくなった。
目から飛び込む情報が奪われた中、耳が痛いほどの静寂は、ただ不安を煽るだけだ。
しばらくじっと我慢していたミロも耐え切れなくなり、そろそろと顔を覗かせた。
「……どうしたの?」
見上げた先に、はらはらと涙を流すカミュの顔があった。
頬を零れる涙が、光を浴びた宝石のように綺羅綺羅と輝いて見える。
場違いなことは承知しつつも、思わずその美しさに見惚れるミロの視線の中、カミュは泣き笑いのような表情をして、忽然と床に崩れ落ちた。
外に這い出たミロは、ただ茫然と泣き崩れるカミュを見上げた。
涙が一粒、大粒の雨のようにミロの足元の床を濡らす。
「カミュ……?」
何とか事態の把握に努めようと、ミロはカミュが両手でひしと握り締めている細長い物に目をやった。
ミロには何の変哲もない物体にしか見えないのだが、室内に入るまで、カミュの手にはあの小さな鍵以外何も無かったはずだ。
この状況では、それがカミュの涙の原因と考えざるをえない。
「何、それ? ……ペン?」
カミュはこくりと頷いた。
頬を涙で濡らし、小さな子供のようにしゃくりあげながら、それでもカミュは微笑んだ。
「すごいんだよ、この万年筆。年に数十本しか作らないっていう職人さんの作品なんだ」
言葉は途切れ途切れではあったが、カミュはどこか自慢するように誇らしげに語った。
サガ愛用の万年筆に、ずっと憧れていたこと。
紙に吸い付くような滑らかな書き味と、洗練されたフォルムの優美さは、それを手にしたサガの流麗な筆致とあいまって、ただの筆記具として片付けられない魅力を持っていた。
そしてある日、あまりに羨ましがるカミュに根負けしたか、サガはカミュに約束してくれたのだという。
「では、君が初めて本を出すことになったら、プレゼントしよう。そのかわり、その万年筆でサインした本を私にくれないか」
そう言って悪戯っぽく微笑んだサガが差し出した小指に、カミュは少しふて腐れながら指を絡めた。
形ばかりの誓約の儀式。
自分が訳した本を出版することなど、夢のまた夢だった頃。
この提案も、体よくカミュをあしらうための方便としか思えなかった。
しかし、サガはひそかに手筈を整えていたのだ。
カミュの華奢な手に合う細身の軸に、カミュの好きな青灰のインク。
カミュの名を刻印したこの万年筆を、いつのまにか用意してくれていたのだ。
いつの日か、カミュの夢が叶うことを信じて。
祝いの言葉と共にこの贈り物を渡すときを、楽しみに待ち望んで。
「サガがこんなことしてくれてたなんて、全然知らなかった……。ずるいよね。もう、お礼を言うこともできないのに……」
再び、カミュの瞳からとめどなく涙が溢れだした。
ミロは無言のまま、じっと泣き崩れるカミュをみつめていた。
すすり泣きの声だけが、室内に重苦しく充満する。
やがて、涙にくれるカミュを一人残し、ミロは静かに部屋を後にした。
体中の水分を全て涙にしても、まだ足りない気がした。
どこまでサガは自分を泣かせるつもりなのだろう。
突然カミュの前から姿を消して、あれほどの涙を流させただけでは飽き足らなかったのか。
この世を去ってからも、なおもこんな予期せぬトリックを仕掛け、カミュを泣かせて楽しんでいるのかとさえ思われた。
もちろん、そんなことはありえないとわかっている。
優しいサガは、こんなとき、むしろカミュが泣き止むように、そっと抱きしめてくれるはずだった。
サガの大きい手に髪を撫でられ、ゆっくりとした心臓の拍動が響く広い胸に顔をうずめる。
そうしていると、全てから守られているようで、まるで赤子に返ったように安心し、いつしか涙も乾くのが常だった。
しかし、今は、違う。
抱き寄せてくれる優しい腕も、慰めてくれる穏やかな声も、カミュを受け止めてくれる温かい胸も、どこにも、ない。
カミュの涙を止める、魔法はない。
ただ、一人で泣き濡れるだけ。
たった、独りで。
「……サガ……」
傍にいて欲しい。
サガが傍にいてくれたら。
そうしたら、涙もおさまるのに。
このままでは、流した涙に溺れてしまう。
それもよいか、と、口元を自嘲的な笑いの形に歪めて、カミュは泣き濡れた顔を両手で覆った。
そのとき。
ぬくもりを、感じた。
誰かの温かい腕が自分を抱きしめているのだと、理解するのにかなりの時間を要した。
……サガ……である、はずがない。
でも、背に回された腕は優しく、抱き寄せられた胸は広く、まるでサガの腕の中にいるようで。
カミュは訝しさと共に瞳を開けた。
目の前に、輝く黄金の波が広がっていた。
「……え……?」
茫然と瞳を瞬かせるカミュに、聞き慣れた声が降ってきた。
「……泣くなよ」
この声は……。
カミュはわずかに顔をよじって、声の主を見た。
豊かに波打つ金髪の……。
「……ミ……ロ……?」
悪戯っぽく輝く蒼い瞳、不敵な笑みを刻む口元、癖の強い艶やかな黄金の髪。
この持ち主に、見覚えがある。
ただ、彼は、もっとずっとずっと小さいはずだ。
掌に乗るような小人の彼が、どうして自分を抱きしめているのだろう。
何故、自分と同じ人間の姿となって、カミュを両の腕に閉じ込めているのだろう。
思考が現実に追いつかず、ただあっけにとられるカミュに、ミロは少し照れくさそうに笑った。
「ちょっとだけ、魔法で人間に戻ってみた。カミュの気がすむまでこうしててやるから、思いっきり泣いていいよ。だから、早く泣き止んで」
あんたの泣き顔はもう見飽きたから、と、冗談めかして片目を閉じると、ミロはカミュの頭をぐいと自分の胸に引き寄せた。
そのまま子供をあやすように、何度も何度も優しく頭を撫でられる。
久方振りに味わう髪を梳き撫でる大きな掌の感触に、昔日が甦った。
泣いていいよ……。
その言葉が、天上からの声に聞こえた。
今はもう亡きサガが、ミロの姿を借りて降りてきてくれた。
そう、信じた。
こくりと小さく頷いたカミュは、遠慮の欠片も無くミロに縋りついた。
カミュは、泣いた。
ミロの胸に顔を埋め、幼い子供のように大きな声を上げて、泣き続けた。