電話のベルがひっきりなしに鳴り響く。
机と机の間の狭い通路を行きかうせわしない足音と、キーボードを慌しく叩く音。
日々刻々と締め切りに追われる新聞や雑誌の編集部ほどではないにしても、出版社特有の喧騒が辺りを包み込んでいた。
この殺伐とした雰囲気を、シュラは嫌いではない。
しかし、ぴりぴりと緊張が走るこの空気に、いつになっても慣れないタイプの人間もいた。
現に、今戸口に姿を見せた、彼がそうだ。
受話器を肩と頬の間に挟みこみ、印刷所の担当者と打ち合わせの電話の最中だったシュラは、かるく片手を振って室内に入ってこようとする人物を押し留めた。
シュラの動作に明らかにほっとした表情をしたカミュは、ちょこんと会釈をすると、素直に廊下に戻って行く。
相変わらず、騒音が支配する部屋が苦手らしい。
彼がここに出入りするようになって、もう何年になるのだろう。
印象深い紅い髪の残像を瞼の裏に留めつつ、シュラは過去へと意識の一部を飛ばした。
初めてカミュに会ったのは、まだ彼が学生の時分だった。
翻訳業志望の学生だから、アルバイトで使ってやってくれると助かるのだが。
滅多に後輩に頼みごとなどしない大学時代の先輩が、そう言って連れてきたのがカミュだった。
いつも自信に溢れたサガの表情に浮かぶ一抹の心もとなさを、珍しいものを見る思いで凝視したのを、鮮明に覚えている。
とりあえず話だけでも、と、件の学生に出会って、ようやくシュラはサガの表情の意味を理解したのだ。
彼の後ろからおずおずと顔を覗かせたカミュは、まだ高校生といっても通用するような、世間ずれしていない少年だった。
緊張しきったその顔が、サガに向けられる時だけは甘えたように綻び、そしてサガも惜しみなく優しい眼差しをカミュに注ぐ。
そんな二人の様子が訳もなく妬ましかったのだが、こちらが心配になるほど無垢なカミュを見ていると、それも至極当然なことに思われた。
カミュは、完全無欠のサガをして心配性な保護者に変えてしまう、掌中の珠だったのだ。
あれから幾つもの季節が巡り、その保護者は不本意ながら姿を消した。
第二の保護者候補として、それなりにカミュの面倒を見てきたと自負するシュラは、今日、その最後の務めを果たすつもりだった。
やがて、電話を終えたシュラも、カミュを追いかけるように廊下へ出た。
窓の外を所在無げに見遣っていたカミュが振り返り、労うように微笑みかける。
サガに見せていた笑顔とよく似た、優しい微笑。
いつの間にか、シュラに対しても、カミュはこんなくつろいだ笑顔を見せてくれるようになっていた。
今更ながらに気づいた事実は、二人の間に流れた時の重さを実感させる。
かつてのサガのように庇護欲をかきたてられそうになる自分を懸命に抑え、シュラは無表情を装った。
「相変わらず忙しそうですね」
「お蔭さんでね。メシ食う暇もない」
ぶっきらぼうな返事のあと、シュラはポケットから煙草を取り出した。
もっとも建物内禁煙のため火はつけられないのだが、オンとオフとの切り替えに、せめてかすかに漂う煙草の香りだけでも感じたかった。
じっと自分に注がれる視線に気付かない振りをして、一本指先でつまみあげる。
物言いたげに唇を尖らせて見上げてくる、カミュのこの表情を見るのが好きだった。
恐らく今、彼の頭の中では、煙草の害に関するちょっとした論文が書けそうなほどの言葉が渦巻いているのだろう。
自分の体を案じてもらえる。
ただその一点が嬉しいばかりに、喫煙癖を止めることができないのかもしれないのだが。
矛盾に満ちた自己分析に、かすかに自嘲の笑みが漏れたが、その理由にカミュが気づくことなどあるまい。
シュラは指先で煙草を弄びつつ、ちょっと遅くなったが昼飯付き合えよ、と声をかけた。
メールだけでは不十分な打ち合わせや資料の受け渡しのためにカミュを呼び出し、そのついでに昼食を共にするのはよくあることだった。
ただ、今回は少しばかり勝手が違う。
テーブルの向こう側で、落ち着かない様子で視線をさまよわせていたカミュが、不思議そうに口を開いた。
「……どうしたんですか?」
「何が?」
「ここ、いつもの5倍くらい高そうなお店ですけど」
「……5倍は大げさだろ。普段よっぽどろくなもの食ってないみたいじゃないか」
「でも……」
カミュはくるりと周囲を見渡した。
壁に飾られた高価そうな風景画も、一枚一枚丁寧に葉を磨き上げているのだろう観葉植物も、静かに耳を潤してくれるピアノの旋律も。
客が帰るたびに取り替えられる糊のきいたテーブルクロスも、卓上に1ミリの歪みも無く整然と並ぶ磨きぬかれた銀食器も。
あまり、普段のシュラが連れてきてくれるような店ではない。
そう言いたげに瞳を揺らめかせるカミュに、シュラは小さく笑うとうそぶいた。
「いいんだよ、今日は接待なんだから」
「どなたか、いらっしゃるんですか?」
初対面の人間と会話するのは苦手なのだろう。
シュラの言葉に、カミュは途端に顔中に緊張を走らせる。
その表情の変化が面白くて、しばらく誤解させたままにしておこうかとも思ったが、基本的にシュラはそういう悪趣味な楽しみ方ができる男ではない。
これから自分が口にする宣告の言葉に、彼がどう反応するのか。
その動静を一瞬たりとも見逃すまいと、シュラは好奇心を抑えつつ、紅い瞳を覗きこんだ。
「接待されるのはおまえだよ、カミュ」
「……え……?」
訳もわからず瞠目するカミュに、シュラは喉の奥でくつくつと笑った。
「こないだリーディングしてもらったエッセイあったろ、あれ、発行決まったから。訳者もおまえさんでいくそうだ」
突然、言葉の意味を理解できなくなったのか。
ぽかんと瞳を見開いたまま動作を止めてしまったカミュを、シュラは楽しげに見遣った。
「要するに、おまえの名がクレジットされた本が、書店に並ぶってことだ。やっと翻訳家デビューだな」
「えええっ!」
奇声を発し身を乗り出すようにして立ち上がったカミュを、店中の人間が何事かと注視する。
「……頼むから、落ち着け」
わざとらしい咳払いに続き、ぼそりと落とされたシュラの声に、ようやく状況を飲み込んだのだろう。
顔を真っ赤に染めて椅子に戻ったカミュは、事態を誤魔化すように、慌てて水を一口飲み下した。
こくんと喉を鳴らすと、照れくさそうに微笑む。
カミュのこんなに嬉しそうな顔は、隣にサガがいなくなってから久しく見ていない。
シュラは目を細めてカミュをみつめた。
「よかったな。……おめでとう、カミュ」
ほんの少し、胸が痛んだ。
この言葉を、一番口にしたかったのは、サガだろうに。
危なっかしいカミュの動向を常に気にかけ、そしてその成長を嬉しそうに見守っていた、かつての保護者だろうに。
それが叶わなかった彼のかわりに、シュラは万感の想いをこめ、もう一度おめでとうと繰り返した。
不必要に大きな白磁の皿の中央に、崩すのが躊躇われるほど繊細に飾り立てられたデザートが盛り付けられていた。
数口で食べつくしてしまう大きさとはいえ、やはり舌が溶けそうなほどに甘い。
口の中に残る甘ったるい香りを、シュラはコーヒーの苦味で消し去ろうと努力していた。
ところが、シュラには苦痛でしかないケーキでも、カミュには幸せを与えているのだろう。
にこにこと表情を緩めながら、すぐに食べてしまうのがもったいないと言わんばかりに、ゆっくりと削り取りつつ口に運んでいる。
そうしてちびちびと食べていたカミュのケーキが残りわずかになった頃、シュラは何かを思い切るように、一つ息を吐いた。
今日の、もう一つの用件を切り出す頃合だった。
「カミュ、おまえに渡す物がある」
「何ですか?」
静かにコーヒーカップを皿に戻したカミュは、申し訳程度に仕事用の顔を作って見返してきた。
シュラは無言でポケットの中に手を差し入れた。
取り出した物体の硬い感触を手の中で確かめると、ことりと小さな音をさせ、テーブルの上に置く。
卓上に出現した物を目にしたカミュの瞳が、訝しげに瞬く。
それは、小指の先程の小さな鍵だった。
つとめてさりげなさを装い、シュラは乾いた唇を開いた。
「書斎の机の一番上の引き出し、だそうだ。おまえが一人前になるまで、預かっておいてくれと言われた」
深く語らずとも、言葉の意味を理解したか。
息を呑む気配がした。
折しもピアノが奏でる曲が変わる狭間、数瞬間だけ静寂が支配する、そんな時だった。
とくとくと早鐘を打つカミュの心臓の鼓動まで聞こえる気がした。
シュラは、つっと視線をそらした。
記憶がまざまざと甦る。
この鍵を預かったのは、珍しくサガと二人で飲んでいた夜だった。
どういう成り行きでそうなったのかまでは覚えていないが、薄暗いショットバーのカウンターで、酒を潤滑油に他愛もない話に興じていたことがあった。
学生時代の思い出話や、今取り組んでいる仕事の話、共通の知り合いの消息など、訥々とながらも多岐に渡った話題の終着駅は、カミュ。
その会話の中で、サガはおもむろにこの鍵を取り出したのだ。
「……俺が、預かるんですか?」
疑問とも確認ともつかないシュラの言葉に、サガはいつもの全てを悟ったような穏やかな表情で頷いた。
「カミュが翻訳家として一人前になったら、渡してやりたい祝いの品があってね」
サガは大きな掌の中で、グラスを回した。
琥珀色の液体が波打ち、氷がぶつかる澄んだ音が、やけに大きく響いた。
私が持っていると、あの子が一人立ちする前にあげてしまいたくなって困る、と、サガは優雅に瞳を伏せて微笑んだ。
相変わらず、嘘がうまい。
シュラはサガの秀麗な横顔を見ながら、黙ってグラスを傾けた。
いくら可愛がっているカミュが相手でも、サガが一旦決めた意志を貫けないはずがない。
彼がシュラに鍵を委ねる、その意味は一つ。
カミュが一人前の仕事ができるようになるまで、担当編集者としてシュラに面倒をみてもらいたい。
それが、この小さな鍵に託されたサガの本意だ。
こんなまわりくどい手段をとらなくても心配は要らないと、言ってやりたかったが、やめた。
そうして、あえて隠された意図に気づかない振りをして、シュラは鍵を受け取ったのだ。
あれから、少なくとも三年は経っただろう。
頼りなかったカミュも、いよいよ訳者としての本格的な一歩を踏み出すことになった。
小さなくせに、ずしりと重いこの鍵を、ようやく返す時がきたのである。
カミュの震える手が、そっと鍵を握り締めた。
「……ありがとう……ございます……」
まだ完全にサガの死から立ち直ったとはいえないカミュには、酷だったろうか。
気遣わしく見守るシュラの視線にも気づかない様子で、カミュは掌の中に納まった過去からの贈り物を凝視していた。
店外に出ると、午後の陽射しが先刻よりも少し和らいでいる気がする。
シュラは雑踏の中を遠ざかるカミュの後ろ姿を見送っていた。
恐らく、今のカミュの心中は、翻訳家として道が開けようとしている自分の将来についてではなく、あの小さな鍵のことで占められているに違いない。
まあ、よかった、のだろう。
煙草を取り出したシュラは、かすかに口元を緩めた。
新人の翻訳家風情を接待するほど、当世の出版社は潤沢という訳ではない。
接待と銘打った今日の午餐は、ささやかなシュラからの祝いだった。
心ここにあらずというあの様子では、世情に疎いカミュが事の真相に気づく確率は、さらに減少したはずだ。
カミュの鈍さに感謝しながらも、苦笑いを浮かべたシュラは煙草に火をつけた。
さて、一本吸ったら仕事に戻るか。
食事中、ひそかに振動し続けていた携帯の着信履歴に脅えつつ、シュラは青い空に向かって煙を吐き出した。
机と机の間の狭い通路を行きかうせわしない足音と、キーボードを慌しく叩く音。
日々刻々と締め切りに追われる新聞や雑誌の編集部ほどではないにしても、出版社特有の喧騒が辺りを包み込んでいた。
この殺伐とした雰囲気を、シュラは嫌いではない。
しかし、ぴりぴりと緊張が走るこの空気に、いつになっても慣れないタイプの人間もいた。
現に、今戸口に姿を見せた、彼がそうだ。
受話器を肩と頬の間に挟みこみ、印刷所の担当者と打ち合わせの電話の最中だったシュラは、かるく片手を振って室内に入ってこようとする人物を押し留めた。
シュラの動作に明らかにほっとした表情をしたカミュは、ちょこんと会釈をすると、素直に廊下に戻って行く。
相変わらず、騒音が支配する部屋が苦手らしい。
彼がここに出入りするようになって、もう何年になるのだろう。
印象深い紅い髪の残像を瞼の裏に留めつつ、シュラは過去へと意識の一部を飛ばした。
初めてカミュに会ったのは、まだ彼が学生の時分だった。
翻訳業志望の学生だから、アルバイトで使ってやってくれると助かるのだが。
滅多に後輩に頼みごとなどしない大学時代の先輩が、そう言って連れてきたのがカミュだった。
いつも自信に溢れたサガの表情に浮かぶ一抹の心もとなさを、珍しいものを見る思いで凝視したのを、鮮明に覚えている。
とりあえず話だけでも、と、件の学生に出会って、ようやくシュラはサガの表情の意味を理解したのだ。
彼の後ろからおずおずと顔を覗かせたカミュは、まだ高校生といっても通用するような、世間ずれしていない少年だった。
緊張しきったその顔が、サガに向けられる時だけは甘えたように綻び、そしてサガも惜しみなく優しい眼差しをカミュに注ぐ。
そんな二人の様子が訳もなく妬ましかったのだが、こちらが心配になるほど無垢なカミュを見ていると、それも至極当然なことに思われた。
カミュは、完全無欠のサガをして心配性な保護者に変えてしまう、掌中の珠だったのだ。
あれから幾つもの季節が巡り、その保護者は不本意ながら姿を消した。
第二の保護者候補として、それなりにカミュの面倒を見てきたと自負するシュラは、今日、その最後の務めを果たすつもりだった。
やがて、電話を終えたシュラも、カミュを追いかけるように廊下へ出た。
窓の外を所在無げに見遣っていたカミュが振り返り、労うように微笑みかける。
サガに見せていた笑顔とよく似た、優しい微笑。
いつの間にか、シュラに対しても、カミュはこんなくつろいだ笑顔を見せてくれるようになっていた。
今更ながらに気づいた事実は、二人の間に流れた時の重さを実感させる。
かつてのサガのように庇護欲をかきたてられそうになる自分を懸命に抑え、シュラは無表情を装った。
「相変わらず忙しそうですね」
「お蔭さんでね。メシ食う暇もない」
ぶっきらぼうな返事のあと、シュラはポケットから煙草を取り出した。
もっとも建物内禁煙のため火はつけられないのだが、オンとオフとの切り替えに、せめてかすかに漂う煙草の香りだけでも感じたかった。
じっと自分に注がれる視線に気付かない振りをして、一本指先でつまみあげる。
物言いたげに唇を尖らせて見上げてくる、カミュのこの表情を見るのが好きだった。
恐らく今、彼の頭の中では、煙草の害に関するちょっとした論文が書けそうなほどの言葉が渦巻いているのだろう。
自分の体を案じてもらえる。
ただその一点が嬉しいばかりに、喫煙癖を止めることができないのかもしれないのだが。
矛盾に満ちた自己分析に、かすかに自嘲の笑みが漏れたが、その理由にカミュが気づくことなどあるまい。
シュラは指先で煙草を弄びつつ、ちょっと遅くなったが昼飯付き合えよ、と声をかけた。
メールだけでは不十分な打ち合わせや資料の受け渡しのためにカミュを呼び出し、そのついでに昼食を共にするのはよくあることだった。
ただ、今回は少しばかり勝手が違う。
テーブルの向こう側で、落ち着かない様子で視線をさまよわせていたカミュが、不思議そうに口を開いた。
「……どうしたんですか?」
「何が?」
「ここ、いつもの5倍くらい高そうなお店ですけど」
「……5倍は大げさだろ。普段よっぽどろくなもの食ってないみたいじゃないか」
「でも……」
カミュはくるりと周囲を見渡した。
壁に飾られた高価そうな風景画も、一枚一枚丁寧に葉を磨き上げているのだろう観葉植物も、静かに耳を潤してくれるピアノの旋律も。
客が帰るたびに取り替えられる糊のきいたテーブルクロスも、卓上に1ミリの歪みも無く整然と並ぶ磨きぬかれた銀食器も。
あまり、普段のシュラが連れてきてくれるような店ではない。
そう言いたげに瞳を揺らめかせるカミュに、シュラは小さく笑うとうそぶいた。
「いいんだよ、今日は接待なんだから」
「どなたか、いらっしゃるんですか?」
初対面の人間と会話するのは苦手なのだろう。
シュラの言葉に、カミュは途端に顔中に緊張を走らせる。
その表情の変化が面白くて、しばらく誤解させたままにしておこうかとも思ったが、基本的にシュラはそういう悪趣味な楽しみ方ができる男ではない。
これから自分が口にする宣告の言葉に、彼がどう反応するのか。
その動静を一瞬たりとも見逃すまいと、シュラは好奇心を抑えつつ、紅い瞳を覗きこんだ。
「接待されるのはおまえだよ、カミュ」
「……え……?」
訳もわからず瞠目するカミュに、シュラは喉の奥でくつくつと笑った。
「こないだリーディングしてもらったエッセイあったろ、あれ、発行決まったから。訳者もおまえさんでいくそうだ」
突然、言葉の意味を理解できなくなったのか。
ぽかんと瞳を見開いたまま動作を止めてしまったカミュを、シュラは楽しげに見遣った。
「要するに、おまえの名がクレジットされた本が、書店に並ぶってことだ。やっと翻訳家デビューだな」
「えええっ!」
奇声を発し身を乗り出すようにして立ち上がったカミュを、店中の人間が何事かと注視する。
「……頼むから、落ち着け」
わざとらしい咳払いに続き、ぼそりと落とされたシュラの声に、ようやく状況を飲み込んだのだろう。
顔を真っ赤に染めて椅子に戻ったカミュは、事態を誤魔化すように、慌てて水を一口飲み下した。
こくんと喉を鳴らすと、照れくさそうに微笑む。
カミュのこんなに嬉しそうな顔は、隣にサガがいなくなってから久しく見ていない。
シュラは目を細めてカミュをみつめた。
「よかったな。……おめでとう、カミュ」
ほんの少し、胸が痛んだ。
この言葉を、一番口にしたかったのは、サガだろうに。
危なっかしいカミュの動向を常に気にかけ、そしてその成長を嬉しそうに見守っていた、かつての保護者だろうに。
それが叶わなかった彼のかわりに、シュラは万感の想いをこめ、もう一度おめでとうと繰り返した。
不必要に大きな白磁の皿の中央に、崩すのが躊躇われるほど繊細に飾り立てられたデザートが盛り付けられていた。
数口で食べつくしてしまう大きさとはいえ、やはり舌が溶けそうなほどに甘い。
口の中に残る甘ったるい香りを、シュラはコーヒーの苦味で消し去ろうと努力していた。
ところが、シュラには苦痛でしかないケーキでも、カミュには幸せを与えているのだろう。
にこにこと表情を緩めながら、すぐに食べてしまうのがもったいないと言わんばかりに、ゆっくりと削り取りつつ口に運んでいる。
そうしてちびちびと食べていたカミュのケーキが残りわずかになった頃、シュラは何かを思い切るように、一つ息を吐いた。
今日の、もう一つの用件を切り出す頃合だった。
「カミュ、おまえに渡す物がある」
「何ですか?」
静かにコーヒーカップを皿に戻したカミュは、申し訳程度に仕事用の顔を作って見返してきた。
シュラは無言でポケットの中に手を差し入れた。
取り出した物体の硬い感触を手の中で確かめると、ことりと小さな音をさせ、テーブルの上に置く。
卓上に出現した物を目にしたカミュの瞳が、訝しげに瞬く。
それは、小指の先程の小さな鍵だった。
つとめてさりげなさを装い、シュラは乾いた唇を開いた。
「書斎の机の一番上の引き出し、だそうだ。おまえが一人前になるまで、預かっておいてくれと言われた」
深く語らずとも、言葉の意味を理解したか。
息を呑む気配がした。
折しもピアノが奏でる曲が変わる狭間、数瞬間だけ静寂が支配する、そんな時だった。
とくとくと早鐘を打つカミュの心臓の鼓動まで聞こえる気がした。
シュラは、つっと視線をそらした。
記憶がまざまざと甦る。
この鍵を預かったのは、珍しくサガと二人で飲んでいた夜だった。
どういう成り行きでそうなったのかまでは覚えていないが、薄暗いショットバーのカウンターで、酒を潤滑油に他愛もない話に興じていたことがあった。
学生時代の思い出話や、今取り組んでいる仕事の話、共通の知り合いの消息など、訥々とながらも多岐に渡った話題の終着駅は、カミュ。
その会話の中で、サガはおもむろにこの鍵を取り出したのだ。
「……俺が、預かるんですか?」
疑問とも確認ともつかないシュラの言葉に、サガはいつもの全てを悟ったような穏やかな表情で頷いた。
「カミュが翻訳家として一人前になったら、渡してやりたい祝いの品があってね」
サガは大きな掌の中で、グラスを回した。
琥珀色の液体が波打ち、氷がぶつかる澄んだ音が、やけに大きく響いた。
私が持っていると、あの子が一人立ちする前にあげてしまいたくなって困る、と、サガは優雅に瞳を伏せて微笑んだ。
相変わらず、嘘がうまい。
シュラはサガの秀麗な横顔を見ながら、黙ってグラスを傾けた。
いくら可愛がっているカミュが相手でも、サガが一旦決めた意志を貫けないはずがない。
彼がシュラに鍵を委ねる、その意味は一つ。
カミュが一人前の仕事ができるようになるまで、担当編集者としてシュラに面倒をみてもらいたい。
それが、この小さな鍵に託されたサガの本意だ。
こんなまわりくどい手段をとらなくても心配は要らないと、言ってやりたかったが、やめた。
そうして、あえて隠された意図に気づかない振りをして、シュラは鍵を受け取ったのだ。
あれから、少なくとも三年は経っただろう。
頼りなかったカミュも、いよいよ訳者としての本格的な一歩を踏み出すことになった。
小さなくせに、ずしりと重いこの鍵を、ようやく返す時がきたのである。
カミュの震える手が、そっと鍵を握り締めた。
「……ありがとう……ございます……」
まだ完全にサガの死から立ち直ったとはいえないカミュには、酷だったろうか。
気遣わしく見守るシュラの視線にも気づかない様子で、カミュは掌の中に納まった過去からの贈り物を凝視していた。
店外に出ると、午後の陽射しが先刻よりも少し和らいでいる気がする。
シュラは雑踏の中を遠ざかるカミュの後ろ姿を見送っていた。
恐らく、今のカミュの心中は、翻訳家として道が開けようとしている自分の将来についてではなく、あの小さな鍵のことで占められているに違いない。
まあ、よかった、のだろう。
煙草を取り出したシュラは、かすかに口元を緩めた。
新人の翻訳家風情を接待するほど、当世の出版社は潤沢という訳ではない。
接待と銘打った今日の午餐は、ささやかなシュラからの祝いだった。
心ここにあらずというあの様子では、世情に疎いカミュが事の真相に気づく確率は、さらに減少したはずだ。
カミュの鈍さに感謝しながらも、苦笑いを浮かべたシュラは煙草に火をつけた。
さて、一本吸ったら仕事に戻るか。
食事中、ひそかに振動し続けていた携帯の着信履歴に脅えつつ、シュラは青い空に向かって煙を吐き出した。