無憂宮
 光は、全てに遍く降り注ぐわけではない。
 一方向から照射されれば、遮蔽物によって影が生じるのは当然の理だ。
 気づかなかった。
 ずっと明るい方ばかりを見ていたから、自分が背後に影を作り出していることになど、気づきもしなかった。
 光源に背を向ければ、視界は陰る。
 正面から光を浴びる勇気など、もはやない。
 目に眩しいパソコンのモニターに背を向け、ミロは力なく足を投げ出して座っていた。
 いや、座った姿勢でマウスに支えてもらっていた、というほうが正確だろう。
 マウスにもたれかかっていなかったら、四肢を投げ出した人形のようにそのままずるずると滑り落ちているはずだ。
 全身を虚無に覆われたミロは、カミュが部屋に入ってきたときも何の反応も示さなかった。
 ディスプレイを目にしたカミュが無言で画面を閉じても、じっと俯いたままだった。
 そうしてどのくらいの時間、二人の間を沈黙が流れただろう。
 虚ろな表情を浮かべたミロは、感情のこもらない声でぼそりと呟いた。
 「……ねえ、これ、本当かな?」
 答えは、わかっていた。
 カミュに嫌な役目を押し付けてしまったという自覚もある。
 それでも、心のどこかで、これは嘘だよ、と言う言葉を切望しているのだ。
 辛い現実から逃避し、気だるい仮想世界に閉じこもりたい。
 そんな甘やかな誘惑は、しかし、あっけなく断たれた。
 小さく首肯するカミュの作り出した空気の流れが、ミロの一縷の望みを粉砕した。
 嘘を言わないのが、事実を曲げないのが、カミュの優しさ。
 今のミロと同じように、幻想の中に生きていた日々があるだけに、それが何の解決にもならないことを、身をもって知っているのだろう。
 ミロは、きつく瞳を閉じた。
 膝を抱え、ただでさえ小さい体をますますきゅっと縮めてうなだれる。
 闇色の世界が、暗く昏く、ミロを溶かし込むようにのしかかる。
 このまま闇に紛れて消えてしまいたいと、思った。
 「……ミロ……」
 かけるべき言葉に迷ったのだろう。
 それでも、何か話しかけずにいられなかったのか、カミュはミロの名を呼びかけたまま黙り込んでしまった。
 陰鬱な空気が、重苦しく立ち込める。
 呼吸さえままならないような静寂を破ったのは、やはりミロの方だった。
 「……俺さ、いいことしたと、思ってたんだよね」
 ぽつんと言葉を漏らしたミロを、カミュは痛々しげに見守っていた。
 その視線で、いっそ責め苦のように我が身を貫き通してほしいと思うのだが、生憎カミュの瞳は、やんわりとミロを包み込むような優しいぬくもりしか与えてくれなかった。
 この居心地の良さに縋ってしまう自分は、どうしようもなく愚かな弱者だ。
 ミロは底の見えない自嘲にどっぷりと浸かりつつ、無理をして顔を笑いの形に歪めてみせた。
 「だって、あいつ、すっごい喜んでたんだぜ」
 淡々と紡がれる告解を、カミュはただ黙って聞いていた。
 独り言のような、途切れ途切れの乾いた声が、ミロの唇から落とされる。
 一度でいいからベストセラーを出したいという、売れない作家の願い。
 それを叶えることは善であると、信じて疑わなかった。
 顔中に喜色を浮かべ、何度も何度もミロに礼を言った彼の作家も、そのときは夢にも思わなかっただろう。
 それが、転落の始まりだったということを。
 たった一冊の成功は、彼を取り巻く世界を変えた。
 上っ面の笑みと共に擦り寄ってきた諸々の人々と、掌を返すように痛罵を浴びせて去っていく移り気な人々と。
 いやがうえにも高まる続刊への期待と、その能力を超えて応えんとする心理的抑圧と。
 無責任な幻影への賞賛と、あからさまな嘲笑と失望と。
 自らの才能によらず、夢を現実のものとしてしまった代償は大きかった。
 心無い周囲に翻弄され、最終的には筆を執ることもできず、彼は失意の内に自ら命を絶っていた。
 それが、数十年の時を経て、ミロが知ってしまった願いごとの結末だった。
 決して耳に心地よいとは言えない懺悔の最中、突如ミロの視界が霞んだ。
 眦が、ひんやりと冷たい。
 泣いているんだ、と、他人事のようにぼんやりと思った。
 何を泣くのだろう。
 自分と出会わなければ、三流作家とはいえ可も無く不可も無く一生を終えたであろう、彼の運命か。
 それとも、幸せを授けたつもりで思い上がって浮かれていた、救いようもない自分の愚かさか。
 身の内でぷつりと何かが切れたように、突如激情がミロを押し流した。
 ミロはばっと勢いよく立ち上がると、熱っぽくカミュを見上げた。
 「カミュ、頼む。さっきのを願いごとにしてよ」
 「……え……?」
 涙に濡れる頬も拭わずに見据えるミロの語調の強さにのまれたか、カミュは少しうろたえたように瞳を瞬かせた。
 たじろいだカミュを逃がすまいと、ミロはなおもまくしたてた。
 「さっきの、ずっとカミュの傍で仕事を手伝うってやつ。そうすれば、俺、もう他の奴の願いを叶えなくてすむし」
 拒絶の言葉を恐れるように、ミロは必死で叫び続けた。
 この絶叫が続くうちは、少なくとも、一筋の希望が繋がれる。
 そう、思った。
 「あんたが不幸にならないように、俺、今度はずっと傍で頑張るから。だから、頼むよ」
 だから、頼むから、頷いてくれ。
 ただ、それだけでいいから。
 ただそれだけの動きで、全てから解放されるから。
 目の前にいるのが生殺与奪の権を握る神であるかのように、ミロは縋りつかんばかりにカミュをみつめた。
 その蒼い瞳には、恐怖と、怯えと、ほんのわずかの期待が混ざった光が宿っていた。
 狂おしいほどの熱情を帯びたその視線を、カミュは怯むこともなく静かに受け止めていた。
 やがて。
 「……ミロ……」
 カミュの唇から漏らされたのは、自分の名を呼ぶ声だけだった。
 そして、その声音で充分だった。
 足から、力が抜けた。
 全身の血が、すっと音を立てて引いていくような気がした。
 ぐらりと揺らぐ世界の中、ミロは崩れ落ちるように座り込んだ。
 絶望。
 きっと、あの作家が味わったのも、こんな感情だったのだろう。
 彼をどん底にまで陥れた、その報いを今受けているのかもしれない。
 涙も涸れ、五感が異様に鈍ったこの自分の状態は、蠍像の中に封印されているときよりも、非現実的だ。
 あの頃は、まだ、希望があった。
 再び人間に戻るために、生きようと思うことができた。
 今は、何も、ない。
 悲愴な笑みが、意思と関係なく口元に浮かぶのを感じた。
 次には、自分は声高らかに哄笑するのだろう。
 このまま、狂ってしまえればいい。
 そうすれば、楽になれる。
 しかし、その哀しい願いは現実とはならなかった。
 狂乱に襲われる前に、ミロを取り巻く防御壁が忽然と生じ、ミロを守った。
 カミュがそっと手を伸ばし、両の掌でミロの体を優しく包み込んできたのだ。
 断崖絶壁に片足を踏み出し、そこで、ぐいと無理やり引き戻された。
 そんな、気がした。
 「駄目だよ、ミロ。君は、人間になりたいんだろう?」
 天空から降ってくるような穏やかな声が鼓膜を甘美に震わせた。
 救いの声に陶酔しそうな自分を叱咤し、ミロはかぶりを振った。
 「……願いを叶えて、それがこんなことになるんなら、もうどうでもいいよ」
 人の不幸と引き換えに人間に戻る。
 そんな意義と価値が自分にあるとは、到底思えなかった。
 もちろん、今までにミロが叶えてきた願いごとは、客観的に’正しい’ことばかりではない。
 どんな願いでも叶えるというミロに、理不尽な願いを告げる輩は、決して少なくはなかった。
 それはそれとして、願い主の自業自得と割り切ることができたのだが、ことこの作家に関しては事情が異なる。
 ミロとしても、良いことをしてやったと、満足のいく仕事だったのだ。
 しかし、実際にミロがやり遂げたのは、人一人の一生を台無しにすることだった。
 そればかりではなく、ひょっとしたらこれは氷山の一角に過ぎないのかもしれない。
 ミロが良かれと思って叶えた願いごとの数だけ、ミロは絶望を作り出してきたのかもしれないのだ。
 自分が悪魔のごとく数多の人生を狂わせてきたという、蓋然性の高い推論は、ミロを自己嫌悪の只中に陥れた。
 カミュの声が、優しければ優しいほど辛い。
 自分は、その厚情を享受できるような立派な人物ではないのだから。
 ミロは唇を噛みしめて俯いた。
 両者共に微動だにしない時間がしばらく続く。
 やがて、頭上の空気がふわりと動いた。
 黄金の髪で覆われたミロの頭の天辺が、かるくくすぐられるように撫でられる。
 それが、カミュがそっと落とした口づけだと理解するには、しばらく時間が必要だった。
 意外な慰めに、きょとんと瞳を瞬かせたミロに、さらに静かな声がもたらされた。
 「ミロ、私は、不幸にはならないから」
 カミュは、自信に満ちた声で、きっぱりと宣言した。
 「アンリ・ドレフュスは、願いごとの選択を誤ったんだ。彼の願いは、人に叶えてもらうべきものではなかった。それだけのことだよ」
 だから、ミロは悪くない。
 そう繰り返すと、カミュは小さく笑った。
 「ただ、私も慎重に願いごとを決める必要があるからね。かなり時間がかかるかもしれないが、それまで私の傍にいてくれるかい?」
 耳に優しく響く囁きは、現実、なのだろう。
 自分を誤魔化すための願望が作り出した、幻聴などではなく。
 カミュは、ミロがここにいていいと言ってくれている。
 ミロのために自分が不幸になることはないと、言い切ってくれている。
 ミロは小さく鼻をすすった。
 涙腺が壊れてしまったようで、頬には止まらぬ涙が溢れてしまい、なかなか俯いた顔を上げられない。
 それでも、過呼吸に苦しむようにしゃくりあげつつ、ミロは口を開いた。
 「……人間になりたいんじゃなくて、戻りたいんだって。何回言えばわかるんだよ」
 「ああ、ごめん……」
 さして悪びれもしない口調で、カミュはさらりと謝ってきた。
 本当に言いたいことは他にあったのだが、伝わった、のだろうか。
 胸の痛くなるような疑問に答えのでないまま、カミュの手にすくい上げられたミロは、上着のポケットに移動させられた。
 カミュの掌のぬくもりはなくなったけれど、やはり温かい力で守られている気がする。
 ミロはうっとりと瞳を閉じた。
 「さ、ケーキを買いにいこうか」
 何事もなかったかのように、カミュが明るく笑いかけてきた。
 だから、ミロもわざと快活に振舞った。
 「俺、苺全部独り占めしていい?」
 「……チーズケーキにしようと思ってたんだけど」
 これは、ミロの気を引き立てるための軽口などではなく、カミュの本心なのかもしれない。
 反応があるまでに、ほんの一瞬だけ間があった。
 相変わらず、とぼけた奴だ。
 ミロはくすりと笑った。
 「……まあ、何でもいいや。店に着いたら起こして」
 ポケットの中は、カミュがいくら気をつけていても、足を運ぶたびに揺れてしまう。
 電車に乗っているようなものか、と、カミュが妙に納得していたのだが、規則正しい振動の心地よさに、移動中のミロはよく居眠りをしていた。
 まして今は、久々に涙などというものを盛大に流してしまったあと。
 ただでさえ瞼が重くなっていた。
 泣き疲れて眠るなんて、子供の頃以来だ。
 でも、眠りに落ちる前に、どうしても言っておきたい一言がある。
 ……カミュに会えて、よかった。
 読唇術の心得があれば、かろうじて読み取れたかもしれない。
 しかし、カミュにそんな特技があろうはずもない。
 音にならなかった言葉は伝えられることもなく、ミロが眠りの国へと共に連れていってしまった。

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