じっと待ち続けるのは、退屈で苦痛だった。
それでも、今はただ、ひたすら閉ざされたドアが開くのを待つしかない。
ミロはカミュの部屋の前で所在無げに座り込んだまま、一向に動く気配の無いドアノブを見上げていた。
魔法を使えば、こんな扉くらい容易に開けられるのだが、それではカミュの仕事を邪魔してしまう。
どこにも出かけず本ばかり読んで、一体カミュはどうやって生計を立てているのだろうと、他人事ながら不審に思っていたのだが、実はそれが彼の仕事と知ったのは、同居して三日目のことだった。
翻訳家の卵だとかいうカミュにとり、読書はただの趣味ではなく、仕事の一環でもあったのだ。
もっとも、今回は思いもかけないミロの乱入があったため、資料の読み込み段階で予定よりも手間取らせてしまったらしい。
締め切りは、二週間後。
下訳とはいえそれなりのものを仕上げたいと、カミュは朝から部屋に篭ってパソコンに向かっているのである。
我慢、我慢。
ご主人さまの邪魔になるなら、願いごとを叶える小人が存在する意味もない。
今まで叶えてきた願いの数々を暇つぶしに思い返しつつ、ミロは扉を穴が開くほどみつめていた。
やがて、その表情に光が差す。
ドアノブが回転し、ゆっくりと扉が開いたのだ。
「終わった?」
喜んで立ち上がったミロに、カミュは力なく首を横に振った。
やつれたとも言えるほど疲れきった表情には、ミロの笑顔を瞬時に消し去る充分な効果があった。
その顕著な変化に、ミロの失望がありありと窺えたのだろう。カミュはミロの気を引き立てるように優しく微笑みかけてきた。
「ミロ、ケーキ買いにいこうか?」
骨董屋で食べた菓子のあまりの美味しさに、すっかりミロは現代の菓子の虜になっていた。
甘さも食感も、今までに食べたことのない極上の菓子。
口の中で蕩ける甘美な味わいに、王侯貴族になったような錯覚さえ覚えた。
封印されて以来、のんびり食事をするほど一つところに留まることはなかったのだから、より一層その味わいは鮮烈だった。
そうして欣喜雀躍するミロがよほど可笑しかったのか、今日の仕事が終わったらケーキを買いにいこうと、カミュはくすくす笑いながら約束してくれたのである。
このような経緯がある以上、カミュの先の誘いは、ミロが待ち望んだ一言のはずだった。
しかし、ミロはあえてそんな素振りを見せない。
願いを叶えに来た者としてのささやかなプライドが、ミロの顔をしかめっ面に形づくる。
「ダメだよ。ケーキは仕事が終わったら、だろ?」
「ちょっと休憩させてくれ。どうしても訳せない語句があるんだ。外国語なのか、アンリ・ドレフュスの造語なのかすらわからない……」
「アンリ・ドレフュス?」
疲労困ぱいしたカミュの漏らした呟きに、ミロの記憶が反応した。
その名には、心当たりがある。
名前の響きに釣られるように、眼鏡の奥の目がおどおどと落ち着きなく動く貧相な男の顔が、脳裏に浮かんだ。
「ああ、知ってるのか? 50年位前の作家なんだが……」
瞳を瞬かせて復唱するミロに、カミュは訝しげに問いかけた。
「知ってる、知ってる。作家だろ? 俺、そいつの願いを叶えたことあるもん」
瞳を瞬かせるのは、今度はカミュの方だった。
無言で部屋に取って返し、たくさん付箋がつきすぎてそれだけで頁のようになっている本を手に戻ってくる。
ミロが見やすいように本を広げたカミュは、床にぺたりと座り込んだ。
「じゃ、ちょっと読んでみてくれ。この意味、解るか?」
カミュが指差した箇所にさっと目を通したミロは、にんまりと笑った。
「なんだ、これ、俺が奴に言った言葉だ。俺たちの言語だよ」
カミュの瞳が輝いた。頁を繰る指が慌しく動き、次の付箋の貼られた頁を指差す。
「じゃ、ここは?」
「これも、かな。ちょっと使い方間違ってるけど」
ミロの言葉に、カミュの口から安堵のため息が漏れた。
カミュの全身を覆っていた焦燥と疲弊が、春の淡雪のように見る見るうちに消えていく。
「おかげで何とかなりそうだ。ありがとう、ミロ」
「いいって。何百年も前の言葉だし、カミュがわかんないのもアタリマエだって」
素直に礼を言われ、なんともいえないくすぐったさに襲われたミロは、わざとぶっきら棒にうそぶいた。
その素っ気無い台詞が、ミロ流の照れ隠しであることを見抜いたのだろう。カミュは人差し指の先で、ご褒美を与えるように、優しくミロの頭を撫でた。
「本当に助かった。ねえ、ミロ。これからも此処にいて、仕事を手伝ってくれないか?」
「……は?」
ぽかんと呆けた顔をして、ミロはカミュを見上げた。
しばらく怪訝そうにミロをみつめかえしていたカミュも、ようやく自分の言葉の意味を飲み込んだらしい。
長い髪を揺らし、慌てて首を振る。
「……そうすると、ミロはいつまでたっても小人のまま、ということになるな。すまない。ただの我侭な思いつきだ。気にしないでくれ」
「……わかってる」
それは、カミュの願いごとじゃない。
それはわかっているのだけれど、何故か心の何処かがちくりと痛んだ。
何故。
疑問が、ミロの胸の内を激しく渦巻いた。
この生活を続けたいと思っているわけではない。
小人の姿から、一刻も早く人間に戻りたいと切望しているはずだ。
それなのに、何故、今のカミュの言葉に衝撃を受けたのだろう。
何故。
突如沸き起こった疑念に、ミロは黙りこんだ。
自分自身が何を思い、何を考えているのかすら、判らない。
自身と向き合うしかなかったこの数百年間で、自分については知り尽くしたと思っていたのに。
遠い昔に忘れ去ってしまったこの情動を、人は何と名付けていただろう。
ミロは、霧がかかったように霞む記憶を必死で手繰った。
しかし、目標物は深い淵に沈んでしまったらしく、手がかりすら掴めない。
諦めと苛立ちが交錯する中、繰り返し自分を呼ぶ声に、ミロは我に返った。
ぼんやりと物思いに沈み始めたミロを案じたのだろう。
浅慮極まりない発言を悔いたカミュが、懸命に話題を変えようとしていたのだ。
「ミロ、アンリ・ドレフュスは、君に何を願ったんだ?」
ミロはカミュを見上げた。
気遣いを浮かべた紅い瞳をみつめると、漣だっていた心が、すうっと落ち着きを取り戻していく。
カミュを、大切なご主人さまを、こんな心配気な瞳にさせたままにしてはおけない。
とりあえず、胸中に渡来した謎は脇に置いておくことにして、ミロは既出の願いごとをファイルした脳内資料をめくってみた。
程なく、貧相な売れない作家の一件書類に到達する。
「えっと、たしか、ベストセラーを書きたいとかだったと思うよ」
「……え?」
カミュが瞳を見張った。
「うん、そうだ。何を書いても全然売れないから、一度でいいからベストセラーをって……」
そこまで述べたミロは口を噤んだ。
自分に注がれるカミュの瞳に、動揺の色を見た。
必死で平静を装おうとしているものの、隠し切れない衝撃が見て取れた。
「……なに?」
訝しげに問いかけられたカミュは、慌てて立ち上がった。
「いや、何でもない。やっぱりケーキ買いに行こう。支度してくるから、ちょっと待っててくれ」
そそくさと別室に向かうカミュの後ろ姿を、ミロは首を傾げつつ見送った。
何か、ある。
好奇心は猫をも殺す。
こんな警句を何度も献呈されるほど、ミロの探究心は人一倍強かった。
そして、それは蠍に封印されてから、衰えるどころかますます強くなっているらしい。
ミロは扉の隙間から、カミュの仕事部屋に身を滑り込ませた。
都合のいいことに、パソコンは起動したままだ。
いろんな情報を引き出せる、魔法の箱なんだ。
そう言いながら、カミュはミロにパソコンの使い方を教えてくれた。
教えを実践するなら、今をおいて他にない。
机上に移動したミロは、キーボードの上をぴょんぴょんと跳びはねた。
検索すべきキーワードは、アンリ・ドレフュス。
幾つかの提示された情報の中から、ミロはとあるサイトに目を向けた。
作家の略歴と作品論評が中心のそのサイト情報を読み進めていくうち、ミロの動きが止まった。
「……嘘」
白く光るディスプレイが、ミロを照らす。
その顔は、画面に劣らず、蒼白になっていた。
それでも、今はただ、ひたすら閉ざされたドアが開くのを待つしかない。
ミロはカミュの部屋の前で所在無げに座り込んだまま、一向に動く気配の無いドアノブを見上げていた。
魔法を使えば、こんな扉くらい容易に開けられるのだが、それではカミュの仕事を邪魔してしまう。
どこにも出かけず本ばかり読んで、一体カミュはどうやって生計を立てているのだろうと、他人事ながら不審に思っていたのだが、実はそれが彼の仕事と知ったのは、同居して三日目のことだった。
翻訳家の卵だとかいうカミュにとり、読書はただの趣味ではなく、仕事の一環でもあったのだ。
もっとも、今回は思いもかけないミロの乱入があったため、資料の読み込み段階で予定よりも手間取らせてしまったらしい。
締め切りは、二週間後。
下訳とはいえそれなりのものを仕上げたいと、カミュは朝から部屋に篭ってパソコンに向かっているのである。
我慢、我慢。
ご主人さまの邪魔になるなら、願いごとを叶える小人が存在する意味もない。
今まで叶えてきた願いの数々を暇つぶしに思い返しつつ、ミロは扉を穴が開くほどみつめていた。
やがて、その表情に光が差す。
ドアノブが回転し、ゆっくりと扉が開いたのだ。
「終わった?」
喜んで立ち上がったミロに、カミュは力なく首を横に振った。
やつれたとも言えるほど疲れきった表情には、ミロの笑顔を瞬時に消し去る充分な効果があった。
その顕著な変化に、ミロの失望がありありと窺えたのだろう。カミュはミロの気を引き立てるように優しく微笑みかけてきた。
「ミロ、ケーキ買いにいこうか?」
骨董屋で食べた菓子のあまりの美味しさに、すっかりミロは現代の菓子の虜になっていた。
甘さも食感も、今までに食べたことのない極上の菓子。
口の中で蕩ける甘美な味わいに、王侯貴族になったような錯覚さえ覚えた。
封印されて以来、のんびり食事をするほど一つところに留まることはなかったのだから、より一層その味わいは鮮烈だった。
そうして欣喜雀躍するミロがよほど可笑しかったのか、今日の仕事が終わったらケーキを買いにいこうと、カミュはくすくす笑いながら約束してくれたのである。
このような経緯がある以上、カミュの先の誘いは、ミロが待ち望んだ一言のはずだった。
しかし、ミロはあえてそんな素振りを見せない。
願いを叶えに来た者としてのささやかなプライドが、ミロの顔をしかめっ面に形づくる。
「ダメだよ。ケーキは仕事が終わったら、だろ?」
「ちょっと休憩させてくれ。どうしても訳せない語句があるんだ。外国語なのか、アンリ・ドレフュスの造語なのかすらわからない……」
「アンリ・ドレフュス?」
疲労困ぱいしたカミュの漏らした呟きに、ミロの記憶が反応した。
その名には、心当たりがある。
名前の響きに釣られるように、眼鏡の奥の目がおどおどと落ち着きなく動く貧相な男の顔が、脳裏に浮かんだ。
「ああ、知ってるのか? 50年位前の作家なんだが……」
瞳を瞬かせて復唱するミロに、カミュは訝しげに問いかけた。
「知ってる、知ってる。作家だろ? 俺、そいつの願いを叶えたことあるもん」
瞳を瞬かせるのは、今度はカミュの方だった。
無言で部屋に取って返し、たくさん付箋がつきすぎてそれだけで頁のようになっている本を手に戻ってくる。
ミロが見やすいように本を広げたカミュは、床にぺたりと座り込んだ。
「じゃ、ちょっと読んでみてくれ。この意味、解るか?」
カミュが指差した箇所にさっと目を通したミロは、にんまりと笑った。
「なんだ、これ、俺が奴に言った言葉だ。俺たちの言語だよ」
カミュの瞳が輝いた。頁を繰る指が慌しく動き、次の付箋の貼られた頁を指差す。
「じゃ、ここは?」
「これも、かな。ちょっと使い方間違ってるけど」
ミロの言葉に、カミュの口から安堵のため息が漏れた。
カミュの全身を覆っていた焦燥と疲弊が、春の淡雪のように見る見るうちに消えていく。
「おかげで何とかなりそうだ。ありがとう、ミロ」
「いいって。何百年も前の言葉だし、カミュがわかんないのもアタリマエだって」
素直に礼を言われ、なんともいえないくすぐったさに襲われたミロは、わざとぶっきら棒にうそぶいた。
その素っ気無い台詞が、ミロ流の照れ隠しであることを見抜いたのだろう。カミュは人差し指の先で、ご褒美を与えるように、優しくミロの頭を撫でた。
「本当に助かった。ねえ、ミロ。これからも此処にいて、仕事を手伝ってくれないか?」
「……は?」
ぽかんと呆けた顔をして、ミロはカミュを見上げた。
しばらく怪訝そうにミロをみつめかえしていたカミュも、ようやく自分の言葉の意味を飲み込んだらしい。
長い髪を揺らし、慌てて首を振る。
「……そうすると、ミロはいつまでたっても小人のまま、ということになるな。すまない。ただの我侭な思いつきだ。気にしないでくれ」
「……わかってる」
それは、カミュの願いごとじゃない。
それはわかっているのだけれど、何故か心の何処かがちくりと痛んだ。
何故。
疑問が、ミロの胸の内を激しく渦巻いた。
この生活を続けたいと思っているわけではない。
小人の姿から、一刻も早く人間に戻りたいと切望しているはずだ。
それなのに、何故、今のカミュの言葉に衝撃を受けたのだろう。
何故。
突如沸き起こった疑念に、ミロは黙りこんだ。
自分自身が何を思い、何を考えているのかすら、判らない。
自身と向き合うしかなかったこの数百年間で、自分については知り尽くしたと思っていたのに。
遠い昔に忘れ去ってしまったこの情動を、人は何と名付けていただろう。
ミロは、霧がかかったように霞む記憶を必死で手繰った。
しかし、目標物は深い淵に沈んでしまったらしく、手がかりすら掴めない。
諦めと苛立ちが交錯する中、繰り返し自分を呼ぶ声に、ミロは我に返った。
ぼんやりと物思いに沈み始めたミロを案じたのだろう。
浅慮極まりない発言を悔いたカミュが、懸命に話題を変えようとしていたのだ。
「ミロ、アンリ・ドレフュスは、君に何を願ったんだ?」
ミロはカミュを見上げた。
気遣いを浮かべた紅い瞳をみつめると、漣だっていた心が、すうっと落ち着きを取り戻していく。
カミュを、大切なご主人さまを、こんな心配気な瞳にさせたままにしてはおけない。
とりあえず、胸中に渡来した謎は脇に置いておくことにして、ミロは既出の願いごとをファイルした脳内資料をめくってみた。
程なく、貧相な売れない作家の一件書類に到達する。
「えっと、たしか、ベストセラーを書きたいとかだったと思うよ」
「……え?」
カミュが瞳を見張った。
「うん、そうだ。何を書いても全然売れないから、一度でいいからベストセラーをって……」
そこまで述べたミロは口を噤んだ。
自分に注がれるカミュの瞳に、動揺の色を見た。
必死で平静を装おうとしているものの、隠し切れない衝撃が見て取れた。
「……なに?」
訝しげに問いかけられたカミュは、慌てて立ち上がった。
「いや、何でもない。やっぱりケーキ買いに行こう。支度してくるから、ちょっと待っててくれ」
そそくさと別室に向かうカミュの後ろ姿を、ミロは首を傾げつつ見送った。
何か、ある。
好奇心は猫をも殺す。
こんな警句を何度も献呈されるほど、ミロの探究心は人一倍強かった。
そして、それは蠍に封印されてから、衰えるどころかますます強くなっているらしい。
ミロは扉の隙間から、カミュの仕事部屋に身を滑り込ませた。
都合のいいことに、パソコンは起動したままだ。
いろんな情報を引き出せる、魔法の箱なんだ。
そう言いながら、カミュはミロにパソコンの使い方を教えてくれた。
教えを実践するなら、今をおいて他にない。
机上に移動したミロは、キーボードの上をぴょんぴょんと跳びはねた。
検索すべきキーワードは、アンリ・ドレフュス。
幾つかの提示された情報の中から、ミロはとあるサイトに目を向けた。
作家の略歴と作品論評が中心のそのサイト情報を読み進めていくうち、ミロの動きが止まった。
「……嘘」
白く光るディスプレイが、ミロを照らす。
その顔は、画面に劣らず、蒼白になっていた。