「少々、脅かしすぎましたかね」
台詞ほどには後悔していない様子で、ムウは優雅に茶杯を傾けた。
既に来客は帰り、いつも通りの二人だけの静かな茶会となっていた。
中国茶の美点は、同じ茶葉で何服も味わえる所にもあると思う。
少なくとも、繊細な外見とは裏腹に意外とものぐさな二人には、それは最大の長所と考えられていた。
「海のものとも山のものともつかない輩にカミュを任せるのだぞ。あれでもまだ足りないくらいだ」
シャカは、カミュが持参した菓子を幸せそうに口に運びつつ、平然とうそぶいた。
自分たちが生来特殊な能力を有していることは承知している。
お互いを受け入れやすかったのは、そのためだ。
自分たちは、普通ではない、からだ。
しかし、カミュは違う。
紅い髪と瞳という人目を引く容貌ではあったが、彼はいたって平凡な人間だ。
ムウのような念動力も、シャカのような霊能力もありはしない。
ただ、彼が大抵の凡庸な人々と異なるのは、その何事をも受け入れてしまえる度量の広さだった。
能力をひけらかすこともしない代わりに隠すこともしなかったムウが、初めてカミュの前で念動力を発動した時、彼は目を丸くした。
そこまでなら、すっかり慣れてしまったありふれた人々の反応。
その時までは、カミュも他の人々同様、表面的には親しい知人の一人に過ぎなかった。
しかし、ムウを驚かせたことに、カミュは続いてこう呟いたのだ。
便利な力だな。
足が速いとか泳ぎが上手いとか、そういった一般的に人が持つ優れた能力に対する賛辞と、何ら変わらない響きの呟き。
それは、この特殊な力の存在によっても、カミュが二人に対して抱く友誼はいささかも損なわれていないことの証左でもあった。
以来、カミュは二人の大切な友人という地位を占めることになったのである。
とはいえ、この半年程の間、そんなカミュの美徳はすっかり姿を消していた。
何事をも在るがままに受容できるはずの彼が、たった一つの事柄だけは、頑迷に拒み続けていたのだ。
サガの死。
カミュがそれを認めたならば、サガがこの世に生きた事実も共に過ごした記憶も、跡形もなく消失してしまう。
そう錯覚しているかのように、カミュはサガの訃報を頑として受け入れようとはしなかった。
痛々しいほど、必死に。
二人が暮らした部屋に引き篭もり、思い出の中、徒に時が過ぎ行くのをただぼんやりと眺め居る。
その状態が望ましくないことは、彼自身も充分承知していただろう。
それでも、カミュはその空虚な安らぎの中から決して出て来ようとはしなかった。
ムウもシャカも、あえてその繭を引き裂くことはなかった。
必要なのは、時間。
眩しいほどに真っ白い紙が、時の経過と共に色褪せ目に馴染んでいくように、カミュの傷を風化させてくれるのは、時間しかない。
そう結論付けた二人は、繭の外からそっと様子を窺い続けていた。
そして、その予測は正しかったようだ。
月毎にカレンダーをめくりとるごとく、自らを取り巻く薄い膜を一枚一枚破り捨て、カミュは徐々に元の自分を取り戻しつつあった。
快活とまではいかないものの、微笑んで静かな会話ができるほどにはなっていた。
ただ、それはあくまで表層にすぎない。少しでも気を抜いたなら、カミュは空っぽな自分の姿を曝け出していただろう。
大切な存在を失った穴は大きすぎて、まだまだそれを埋められるほどの時間は経っていなかった。
危険な状態、だった。
受容体とでも形容したくなる彼の特質は、同時に邪霊をも呼び込みやすいものでもある。
今までは、常に傍にあったサガの存在と、カミュ自身の幸福に満ち足りた気が幸いし、邪霊を寄せ付けることも無かった。
しかし、今のカミュには、そのいずれもが欠けてしまっているのだ。
現世への復活を望み実体を手に入れようとする霊体にとり、余りに無防備なカミュは魅力的な獲物のはずだ。
いつ取り憑かれても、不思議はなかった。
密かに彼の部屋に結界を張ることで、二人ははこれまでカミュを護ってきた。
もちろん、結界の効力は、内にカミュがいる場合にのみ発揮されるものだ。
だからといって、カミュをいつまでも室内に閉じ込めておく訳にはいかない。
そして、二人が常に彼に付き従うことも、現実的に不可能だ。
結界の外でも彼を護ってくれる、誰かが必要だった。
そんなときに偶然見つけたのが、あの蠍像だ。
あの像には、何かが憑いていた。
悪しき存在ではない、何かが。
二人は、賭けたのだ。
その憑物が、カミュを守護する何者かにならんことを。
それが、ミロだった。
「まあ、あれだけ脅かしておけば、彼奴も必死でカミュを護ろうとするだろう。もしカミュを邪霊に害されたなら、それが自分の咎でなくても、私たちの怒りを買うと思っているだろうからな」
薄情ともいえるシャカの言葉に、ムウは賛同の意を表するように瞳を伏せて頷いた。
そして、わずかに表情を緩める。
「それに、カミュにとっても、彼でよかった。カミュのあの表情を見ましたか」
シャカは閉ざされた瞼の下で瞳をかすかに動かした。
脳裏に先程の情景が甦ったのだろう、口許が綻ぶ。
「ああ、久方ぶりに見たな。カミュの自然な笑顔を」
この短い来訪の間、常にカミュはミロに優しく微笑みかけていた。
悪戯っ子を見守る年長者のように、温かく穏やかな瞳で。
カミュを護ってくれる存在も必要なのだが、それ以上に、カミュが守るべき存在もまた不可欠だった。
彼は、自分以外の誰かのために生きることに喜びを見出す、そういう性質の人間だったから。
自分を必要としてくれる存在。
それがカミュの胸にぽっかり空いた穴を埋める手助けをしてくれるはずだ。
ちょこまかと動き回る小さなミロは、カミュの庇護欲を掻き立てる役目を十二分に果たしてくれそうだった。
「人であり人でないのがよかったのだろう。見も知らぬ他人を受け入れるには、カミュは人見知りが過ぎるからな」
「……そうですね。ただ……」
言いさして口を噤んだムウに、シャカは訝しげな視線を注いだ。
「何かね?」
「……ただ、それがまた別の問題を引き起こすかもしれませんけどね」
ムウは遥か彼方をみつめるように、瞳を茫洋と霞ませた。
同じ未来を見通す者でありながら、その瞳に映る事象が一致するとは限らない。
それくらい、未来は不確実で、いかようにも変じうるものなのだ。
しばらく啓示を求めて瞑想していたシャカは、やがて不満気にムウに反駁した。
「私にはそのような予知映像はいささかも見えないが?」
「あなたにはわからないだけかもしれませんよ」
答えを与える気はないらしい。
意味ありげに微笑むだけのムウに、シャカはわずかに眉をひそめた。
が、それ以上ムウの言葉の意味を追求しても無駄と思ったのだろう。
質問を放棄する代償とばかりに、シャカは皿に残った最後の菓子に遠慮なく手を伸ばしてきた。
台詞ほどには後悔していない様子で、ムウは優雅に茶杯を傾けた。
既に来客は帰り、いつも通りの二人だけの静かな茶会となっていた。
中国茶の美点は、同じ茶葉で何服も味わえる所にもあると思う。
少なくとも、繊細な外見とは裏腹に意外とものぐさな二人には、それは最大の長所と考えられていた。
「海のものとも山のものともつかない輩にカミュを任せるのだぞ。あれでもまだ足りないくらいだ」
シャカは、カミュが持参した菓子を幸せそうに口に運びつつ、平然とうそぶいた。
自分たちが生来特殊な能力を有していることは承知している。
お互いを受け入れやすかったのは、そのためだ。
自分たちは、普通ではない、からだ。
しかし、カミュは違う。
紅い髪と瞳という人目を引く容貌ではあったが、彼はいたって平凡な人間だ。
ムウのような念動力も、シャカのような霊能力もありはしない。
ただ、彼が大抵の凡庸な人々と異なるのは、その何事をも受け入れてしまえる度量の広さだった。
能力をひけらかすこともしない代わりに隠すこともしなかったムウが、初めてカミュの前で念動力を発動した時、彼は目を丸くした。
そこまでなら、すっかり慣れてしまったありふれた人々の反応。
その時までは、カミュも他の人々同様、表面的には親しい知人の一人に過ぎなかった。
しかし、ムウを驚かせたことに、カミュは続いてこう呟いたのだ。
便利な力だな。
足が速いとか泳ぎが上手いとか、そういった一般的に人が持つ優れた能力に対する賛辞と、何ら変わらない響きの呟き。
それは、この特殊な力の存在によっても、カミュが二人に対して抱く友誼はいささかも損なわれていないことの証左でもあった。
以来、カミュは二人の大切な友人という地位を占めることになったのである。
とはいえ、この半年程の間、そんなカミュの美徳はすっかり姿を消していた。
何事をも在るがままに受容できるはずの彼が、たった一つの事柄だけは、頑迷に拒み続けていたのだ。
サガの死。
カミュがそれを認めたならば、サガがこの世に生きた事実も共に過ごした記憶も、跡形もなく消失してしまう。
そう錯覚しているかのように、カミュはサガの訃報を頑として受け入れようとはしなかった。
痛々しいほど、必死に。
二人が暮らした部屋に引き篭もり、思い出の中、徒に時が過ぎ行くのをただぼんやりと眺め居る。
その状態が望ましくないことは、彼自身も充分承知していただろう。
それでも、カミュはその空虚な安らぎの中から決して出て来ようとはしなかった。
ムウもシャカも、あえてその繭を引き裂くことはなかった。
必要なのは、時間。
眩しいほどに真っ白い紙が、時の経過と共に色褪せ目に馴染んでいくように、カミュの傷を風化させてくれるのは、時間しかない。
そう結論付けた二人は、繭の外からそっと様子を窺い続けていた。
そして、その予測は正しかったようだ。
月毎にカレンダーをめくりとるごとく、自らを取り巻く薄い膜を一枚一枚破り捨て、カミュは徐々に元の自分を取り戻しつつあった。
快活とまではいかないものの、微笑んで静かな会話ができるほどにはなっていた。
ただ、それはあくまで表層にすぎない。少しでも気を抜いたなら、カミュは空っぽな自分の姿を曝け出していただろう。
大切な存在を失った穴は大きすぎて、まだまだそれを埋められるほどの時間は経っていなかった。
危険な状態、だった。
受容体とでも形容したくなる彼の特質は、同時に邪霊をも呼び込みやすいものでもある。
今までは、常に傍にあったサガの存在と、カミュ自身の幸福に満ち足りた気が幸いし、邪霊を寄せ付けることも無かった。
しかし、今のカミュには、そのいずれもが欠けてしまっているのだ。
現世への復活を望み実体を手に入れようとする霊体にとり、余りに無防備なカミュは魅力的な獲物のはずだ。
いつ取り憑かれても、不思議はなかった。
密かに彼の部屋に結界を張ることで、二人ははこれまでカミュを護ってきた。
もちろん、結界の効力は、内にカミュがいる場合にのみ発揮されるものだ。
だからといって、カミュをいつまでも室内に閉じ込めておく訳にはいかない。
そして、二人が常に彼に付き従うことも、現実的に不可能だ。
結界の外でも彼を護ってくれる、誰かが必要だった。
そんなときに偶然見つけたのが、あの蠍像だ。
あの像には、何かが憑いていた。
悪しき存在ではない、何かが。
二人は、賭けたのだ。
その憑物が、カミュを守護する何者かにならんことを。
それが、ミロだった。
「まあ、あれだけ脅かしておけば、彼奴も必死でカミュを護ろうとするだろう。もしカミュを邪霊に害されたなら、それが自分の咎でなくても、私たちの怒りを買うと思っているだろうからな」
薄情ともいえるシャカの言葉に、ムウは賛同の意を表するように瞳を伏せて頷いた。
そして、わずかに表情を緩める。
「それに、カミュにとっても、彼でよかった。カミュのあの表情を見ましたか」
シャカは閉ざされた瞼の下で瞳をかすかに動かした。
脳裏に先程の情景が甦ったのだろう、口許が綻ぶ。
「ああ、久方ぶりに見たな。カミュの自然な笑顔を」
この短い来訪の間、常にカミュはミロに優しく微笑みかけていた。
悪戯っ子を見守る年長者のように、温かく穏やかな瞳で。
カミュを護ってくれる存在も必要なのだが、それ以上に、カミュが守るべき存在もまた不可欠だった。
彼は、自分以外の誰かのために生きることに喜びを見出す、そういう性質の人間だったから。
自分を必要としてくれる存在。
それがカミュの胸にぽっかり空いた穴を埋める手助けをしてくれるはずだ。
ちょこまかと動き回る小さなミロは、カミュの庇護欲を掻き立てる役目を十二分に果たしてくれそうだった。
「人であり人でないのがよかったのだろう。見も知らぬ他人を受け入れるには、カミュは人見知りが過ぎるからな」
「……そうですね。ただ……」
言いさして口を噤んだムウに、シャカは訝しげな視線を注いだ。
「何かね?」
「……ただ、それがまた別の問題を引き起こすかもしれませんけどね」
ムウは遥か彼方をみつめるように、瞳を茫洋と霞ませた。
同じ未来を見通す者でありながら、その瞳に映る事象が一致するとは限らない。
それくらい、未来は不確実で、いかようにも変じうるものなのだ。
しばらく啓示を求めて瞑想していたシャカは、やがて不満気にムウに反駁した。
「私にはそのような予知映像はいささかも見えないが?」
「あなたにはわからないだけかもしれませんよ」
答えを与える気はないらしい。
意味ありげに微笑むだけのムウに、シャカはわずかに眉をひそめた。
が、それ以上ムウの言葉の意味を追求しても無駄と思ったのだろう。
質問を放棄する代償とばかりに、シャカは皿に残った最後の菓子に遠慮なく手を伸ばしてきた。