無憂宮
 話下手な自分をこれほど恨んだことはない。
 昨夜からの一連の出来事の説明に、カミュはすっかり疲弊していた。
 ただでさえ奇妙な体験の上、何だかんだと横から口を挟んで来るミロをあしらいつつなのだから、自分でも理解に苦しむほど話は混乱していたように思う。
 それでも、ムウは生来の聞き上手だ。
 端々に的確な質問を投げかけ話の進行を促してくれる彼の助力を得て、カミュはなんとか昨夜来自分に降りかかった事態を説明することができた。
 話を終え、ほっと一息つくカミュに、ムウがちらりと視線を向けてくる。
 不器用ながらも一仕事終えた部下をねぎらう上司のように、瞳の端に隠し切れない苦笑が浮かんでいた。
 「なるほど。大体の事情はわかりました。そういうことでしたら、このドールハウス、お貸ししてもいいですよ」
 「それは有難いが……。高価なものなのだろう」
 カミュは眉をひそめた。
 さすがにそれは、友人としての好意に甘えられる限度を越えているような気がしてならない。
 しかし、骨董店の主人は、別段気にした風もなくうそぶいた。
 「物は使われてこそ価値があるのですよ。実際に使用できるなら、それに越したことはない」
 「確かに。このような代物、観賞用以外の使途は無いと思っていたがな。その代わり、後で使い心地を報告したまえ、そこの小人」
 「ミロだって! ちゃんと名前で呼べよな」
 意外に気が合うのかもしれないシャカとミロの熾烈な舌戦を横目で見ながら、ムウは微笑んだ。
 「では、これはあなたの部屋に送っておきますね」
 言い終わらないうちに、目の前のドールハウスが瞬時にその姿を消した。
 わずかに漂う残像も程なく薄れ、卓上には家が存在した名残など、どこにも見当たらない。
 瞬間移動。
 今頃は、カミュの部屋の一角に、小さな家が鎮座していることだろう。
 眼前の超常現象の一部始終を見ていたミロは、あんぐりと口を開けたまま、カミュの髪をくいと引っ張った。
 「なあ、カミュ。こいつも魔法使い?」
 「……まあ、似たようなものかな」
 ムウの能力に関しては、カミュも他者に説明できる程の知識を有しているわけではない。
 いなすように微笑むカミュに、ムウは悪戯っぽく流し目を送ってきた。
 「輸送費は頂きますよ。お茶はあなたが淹れてくださいね」
 「茶葉は碧螺春を使いたまえ。あの菓子にはそれがよく合う」
 やはり、客としては扱ってもらえないらしい。
 苦笑しつつ、カミュは立ち上がった。
 とはいえ、この傍若無人なあしらいが、逆に彼らがカミュを友人として認めてくれていることを再認識させるのは否めない。
 嬉しいことだ。
 綻びそうになる口許に気づかれないように、カミュは無言で背を向け、茶の支度をするべく店の奥へと足を進めた。
 今更、どこに何があるか訊く必要もない。
 それくらい、カミュもすっかりこの店に馴染んでいた。


 カミュが立ち去ると、途端にすっと寒気を感じた。
 冷たい夜風が吹きぬけるように、背後から冷気がにじり寄ってくる。
 訝しさと共に振り返ったミロは、我知らず一歩後ずさった。
 先程までにこやかに会話をしていたムウとシャカが、険しい表情でじっとミロに視線を注いでいたのだ。
 空気が重量を増したかとの錯覚さえ覚える、圧倒的な威圧感。
 自分よりも力を持つ存在と対峙するのは、封印されて以来初めてのこと。
 かつて、師の凄絶な瞳に射竦められ震え上がった記憶が、思い出したくもないのにゆらりと甦ってきた。
 「さて、あなたにお伺いしたいのですが」
 久々に感じる恐怖に息を呑むミロに、ムウが事務的に声をかける。
 カミュに話しかけていたのとはずいぶん異なる感情の無い口調は、静かなだけに凄みがあり、ミロを益々脅えさせた。
 「な、何を?」
 かすかに上擦る声で、それでもミロは精一杯虚勢を張ってムウを見上げた。
 ムウの大きな瞳がすっとそばめられる。
 氷のような冷たい視線のシャワーを浴び、ミロはこくりと喉を鳴らした。
 「願いを叶える代償に、魂が必要とかいうんじゃないんでしょうね。メフィストフェレスのように」
 一瞬呆けたミロは、ぽかんとムウの顔をみつめた。
 一体、この現代の魔法使いは、何を言い出すのだろう。
 しかし、その瞳にいささかも揺るぎがないところを見ると、どうやら彼は真剣に問いかけているらしい。
 「……いや、そんなものもらっても、どうしていいのかわかんないから、いらない」
 「では、猿の手のように阿漕な願いの叶え方をするのではなかろうな」
 次いで審問権はシャカに移った。
 とはいえ、ムウの質問の時とは異なり、ミロにはシャカが言わんとしている意味がさっぱりわからない。
 「猿の手? 何、それ?」
 瞳を瞬かせるミロに、シャカは尊大な一瞥を与えてきた。
 「知らんのか。やはり君と同じように願いを叶える代物らしいが」
 「ああ、大金が欲しいと言ったら、息子が死んで保険金が入り、生き返って欲しいと言ったら、腐乱死体の息子が生き返ったという怪談ですね」
 ムウが思い出したように口を挟む。
 重々しく頷くシャカを見上げ、ミロは力なく答えた。
 「……そんなグロイこと、俺の方がしたくない」
 答える気もなくすような馬鹿げた問答に、げっそりとしたミロは、深く息をついた。
 「俺は悪魔じゃなくて魔法使いなの。ただカミュの願いごとを叶えれば、それでいいんだよ」
 代償など必要なかった。
 その願いがいかなる内容の物であれ、ミロはただ、その実現に力を貸すだけだった。
 それにより、願い主がその後どのような運命に翻弄されようと、ミロの知ったことではない。
 そうやって、今まで百人近くの願いを叶えてきたのだ。自らの封印を解くために。
 ムウとシャカはちらりと視線を交わした。
 やがて、わずかでも衝撃を与えたなら粉々に砕け散りそうな程ぴんと張り詰めていた空気が、徐々にその緊張を解いてゆく。
 「……そうですか。それならば、あなたを信じましょう」
 ムウの声音がほんの少し和らぎ、安堵したミロは肩の力を抜いた。
 「ただし」
 しかし、その放心も束の間。
 鋭く響く冷厳な声に、ミロは再び全身を強張らせた。
 「ただし、万が一にでも、あなたがカミュに害を及ぼしたなら、私たちが許しませんからね」
 ムウの口許には優雅な微笑が漂っていた。
 それだけに、その温厚そうな微笑とは裏腹の危険極まりない台詞が、一層ミロの恐怖を煽る。
 「もともと、あの蠍像に憑いていた君を祓い落とすつもりだったのだよ。君の存在が何かカミュに役立つかもしれんということで、先送りにしただけのことだ」
 シャカが淡々と告げる言葉に、ミロは自らが薄氷の上を歩んでいたことを悟った。
 相手の力量が量れないほど、ミロは鈍くはないし愚かでもない。
 この二人は、それぞれ単独ですら、ミロの魔術を一蹴できるくらいの力を有していた。
 必然、彼らの思惑に反する事態が起きたなら、彼らは瞬時にミロを抹消するだろう。
 何の躊躇いも、憂いも無く。
 それが、数多の憑物を浄化してきた彼らの強さなのだと、ミロは骨の髄まで凍りつきそうな恐怖と共に理解した。
 かたかたと小刻みな音が耳障りに響く。
 それが、自分の足が震えているからだと気づいたミロは、ともすれば崩れ落ちそうになる下肢に必死で力を込めた。
 こうして立っているのがやっと。
 いつまでこの虚勢を保つことができるのか、全くわからない。
 震える全身が救いを求めて発する叫び声だけが、ミロの鼓膜を振動させる。
 扉を開く音が耳に飛び込んできたのは、そんな最中だった。
 「……茶が入ったが」
 茶菓の支度をして戻ってきたカミュの声が、天使の吹き鳴らす喇叭の音に聞こえた。
 その救いの音声が、殺伐とした世界を穏やかな安らぎ色に染め変えていく。
 「ご苦労さまです」
 何事も無かったように迎える店主たちからは、先程までの酷薄とも言える眼光も声色も、すっかり姿を消していた。
 まるで、カミュのいない一刻は、白日に見せられた悪夢であったかのように。
 別人格と入れ替わったかのような二人の豹変振りが、また恐ろしさに拍車をかける。
 カミュが席に着くや否や、ミロは庇護の翼の下に隠れようとその胸に飛びついた。
 今、この場では、カミュはミロの安全を保障してくれる唯一の存在だ。
 カミュだけが、頼りだった。
 かすかに震える体が、カミュの体温に触れようやく人心地を取り戻していく。
 「どうした、ミロ? そんなに菓子が食べたいのか」
 今しがたまで繰り広げられていた恫喝じみた警告など知らぬカミュが、ミロを掌に乗せ、にこりと笑った。
 母親が幼児をあやすような、飼い主がペットに話しかけるような、優しい笑顔。
 自らが守護すべきか弱きものへ向ける、慈愛に満ちた微笑。
 「……うん」
 その紅い瞳にみつめられたミロは、今すぐに帰りたいとは、どうしても言えなくなっていた。

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