重い扉を押し開くと、澄んだ音が響いた。
扉に取り付けられた小さな鐘が、来客の訪れを知らせるべくその身を震わせたのだ。
こんなものがなくても、ここの一風変わった店主たちは、訪問者の存在くらい事前に察知しているはずなのだが。
そう不審がるカミュに、世間一般の店と同じ仕掛けが必要な人もいるのだと、店主はかつてその設置の理由を述べていた。
この鐘の音がなかったら、扉の向こうに足を踏み入れるや、時代も時空も超越した混沌の真っ只中に放り込まれ、足元が覚束ない錯覚に襲われる。
カミュには何ら痛痒を感じないこの浮遊感も、世の中には耐え難い人間もいるということらしい。
現実と繋がっている安心感を、常に必要とする人間が。
骨董を商うという職種柄、常に店内には古道具の類が雑然と並んでいた。
主を亡くしても、物は生き続ける。
様々な人の思いを載せたまま無言で存在する骨董品の数々は、限りある人の生の儚さを想起させ、いつも不思議な感銘を与えるものだった。
カミュはぐるりと小さな店内を見渡した。
陽光は保存上あまり好ましくないとかで、常に店内は薄暮の暗さに包まれている。
その一角に、机上に広げた和綴じの本を一心不乱に読んでいる店主の姿があった。
まるで商品の一部でもあるかのように自然に店内に溶け込んでいるため、存在に気づくのが遅れたらしい。
「……お待ちくださいね。もう少しで読了しますので」
視線を頁に落としたまま、ムウは独り言のように呟いた。
李王朝の産だという黒檀の長机は、一応売り物の筈なのだが、すっかりムウの文机と化していた。
カミュは読書の邪魔をしないよう無言でうなずくと、やはり売り物の椅子に腰を下ろし、ぼんやりと店内を眺めた。
悠久の時を経た古道具に取り囲まれていると、自らの存在する世界が朧に霞みだすような錯覚を覚える。
そんな夢見心地のカミュを地上へと繋ぎとめてくれているのは、静寂の中に時折混じる、頁を繰るかすかな紙擦れの音だけ。
こうして時を過ごすことは、嫌いではない。
今までも、この居心地の良さに引かれて、足繁く通ってきたものだった。
俗世のしがらみから解き放たれた世捨て人のような生き方が、ここの主人のみならずカミュの性にも合っているのかもしれなかった。
程なく、かたんと小さな音がする。
振り返ると、ムウがかけていた眼鏡を机上に置き、本を閉じていた。
「今日、シャカは?」
「古代の呪具が手に入りましたのでね、奥で憑物を落としています」
商売っ気のない二人が順調に店を続けていられるのは、このシャカの能力に負うところが大きい。
財産的価値は高いものの、妖しげな曰くつきのため敬遠される品というのは、骨董業界ではそう珍しくないという。
そんな品々をただ同然で引き取り、祓い清めた上で再び流通に乗せているのだと、以前ムウが事も無げに教えてくれたことがあった。
仕舞い込まれたままでは物も可哀想ですから、と微笑む骨董屋の姿を漠然と思い返していたカミュに、ムウは続けて穏やかな声をかけた。
「あなたが来る頃までには終えると言っていましたので、そろそろこちらへ来ると思いますよ」
「……ああ、やはり私の訪問を見透かしていたのだな」
口許に微苦笑を刻みつつ、カミュは手にした紙袋から手土産の菓子箱を取り出した。
「ここに来る途中、なぜか突然食べたくなったのだ。たしかシャカの好物だったな」
精神感応というものらしい。
無意識にシャカの意図を感じ取ってしまうカミュは、結果的にシャカの思惑通りの行動をさせられることが度々あった。
「あの人は自ら買物したりしませんからね。あなたが念を受け取めやすい方で助かります、いつも」
やはり苦笑を浮かべながら、後でお茶を淹れましょうと、ムウはカミュの手から菓子箱を受け取った。
和やかな友人との会話。ただ、今日の来訪の目的はそれだけではない。
カミュは小さく咳払いをした。
「私は今日は店の客として来たのだが」
「おや、何かお気に召しましたか」
ムウは大きな瞳を興味深げに揺らめかせた。
とはいえ、全てを理解しているかのように、常に泰然と落ち着き払っているムウのことだ。
所詮この仕草もジェスチャーにすぎず、カミュの内心の意図を既に察しているのだろう。
人とのコミュニケーションが少し苦手なカミュにとって、彼らの常人離れした鋭敏な感覚は、決して不愉快ではなく、むしろ有難いものだった。
そしてこの密かに抱く感謝の念も、口に出さずともムウにはすっかりお見通しのはずだ。
カミュはわずかに感じる照れ臭さを押し隠そうと、努めて真面目な表情を作った。
「昨日、ここで人形の家を見かけたんだが、それがちょっと入用でね」
「ああ、ドールハウスですね」
頷いたムウが、すっと指を持ち上げ、そのまま先程まで読書に使用していた机を差す。
一瞬の間の後、机上には小さな家が出現していた。
こういった能力を持つ友人がいるから、突然の小人の出現にも対応できているのかもしれない。
カミュは苦笑しつつも、目当ての家を注視した。
家の中には、ただ規模が小さいというだけで、通常の家と何ら遜色ない家具が設置されている。
さらによく目を凝らしてみると、再現されているのは家具だけではない。
本棚には書物、食器棚には食器等、小道具に至るまで精巧に作られていた。
ミロが生活するために、ちょうどよい大きさ。
彼との共同生活を始めるにあたり、偶然見かけたこの小さな家が、ふと脳裏を過ぎった。
その自分の着想の正しさに満足しながら、カミュは視線を家からムウへと移した。
「そう、これ。買いたいんだが、いくら位するのだろうか」
「高いですよ」
悪戯っぽく微笑んだムウが耳元で囁く金額に、カミュは瞳を見張った。
「冗談……」
「……ではありません。そもそもこれは貴族の命で作られたものですからね。使用されている材料は贅を尽くしたものですし、熟練した職人にしかなしえない精緻な細工は芸術の域に達していますから」
「そうか……」
予想以上の高値に出鼻を挫かれ、困惑したカミュは顎に指をかけて考え込んだ。
と、そのとき、背後からかけられた静かな声が、それ以上の思考を妨げる。
「……また面妖な客だな」
「ひどい物言いだな、シャカ」
毎度のこととはいえ、傍若無人な言われように苦笑するしかないカミュに、もう一人の店主は音もなく近づいてきた。
特殊な能力をもつ代償か、彼は常に瞳を閉ざしているのだが、その足取りに危ぶむべきところはいささかもない。
「君ではない。君の連れだ」
「……さすがだな。もうわかるのか」
微笑んだカミュは、視線を床に下ろすと、出ておいでと虚空に声をかけた。
ムウとシャカが見守る中、カミュの上着のポケットがもぞもぞと動き出す。
やがて、ひょこりと金髪の小人が顔を覗かせた。はるか上方から注がれる視線に怯むこともなく、三人の顔を検分するように見上げてくる。
「君たちがくれた蠍にいたんだ。名はミロというらしい」
差し出した手に飛び乗ってきたミロを目線に掲げ、カミュは小さく笑った。
「ミロ、こちらはムウとシャカ。私の友人だ」
「うわっ、腹立つ! 紹介の仕方が俺のときと全然違うじゃん」
頬を膨らませて見上げてくるミロは、本当に怒っているようだった。
もし彼が小人でなかったら、この怒りに満ちた蒼い視線を、カミュは受け止めかねたかもしれない。
そう思わせるほど鋭い瞳で傲然とねめつけられ、途方に暮れたカミュはおずおずと問い返した。
「……では、どう言えばよいのだ」
「俺のことも友人って言ってよ」
「……新しい友人のミロだ。……これで満足か?」
「うん!」
途端に機嫌を直し得意げな笑みを浮かべたミロと、小人に振り回されている自分の取り合わせは、彼らの目にどう映っているのだろう。
不安に駆られたカミュに追い討ちをかけるように、ムウは胡乱な視線を浴びせつつ一言呟いた。
「腹話術漫才でも始める気ですか?」
「違うっ!」
声を揃えて否定する二人の客に、シャカが止めを刺す。
「前言を撤回しよう。カミュ、やはり君も面妖だ」
深く賛同するように頷くムウを視界の端に捉えたカミュは、がっくりと肩を落とした。
立ち直るには、しばらく時間が必要なようだった。
扉に取り付けられた小さな鐘が、来客の訪れを知らせるべくその身を震わせたのだ。
こんなものがなくても、ここの一風変わった店主たちは、訪問者の存在くらい事前に察知しているはずなのだが。
そう不審がるカミュに、世間一般の店と同じ仕掛けが必要な人もいるのだと、店主はかつてその設置の理由を述べていた。
この鐘の音がなかったら、扉の向こうに足を踏み入れるや、時代も時空も超越した混沌の真っ只中に放り込まれ、足元が覚束ない錯覚に襲われる。
カミュには何ら痛痒を感じないこの浮遊感も、世の中には耐え難い人間もいるということらしい。
現実と繋がっている安心感を、常に必要とする人間が。
骨董を商うという職種柄、常に店内には古道具の類が雑然と並んでいた。
主を亡くしても、物は生き続ける。
様々な人の思いを載せたまま無言で存在する骨董品の数々は、限りある人の生の儚さを想起させ、いつも不思議な感銘を与えるものだった。
カミュはぐるりと小さな店内を見渡した。
陽光は保存上あまり好ましくないとかで、常に店内は薄暮の暗さに包まれている。
その一角に、机上に広げた和綴じの本を一心不乱に読んでいる店主の姿があった。
まるで商品の一部でもあるかのように自然に店内に溶け込んでいるため、存在に気づくのが遅れたらしい。
「……お待ちくださいね。もう少しで読了しますので」
視線を頁に落としたまま、ムウは独り言のように呟いた。
李王朝の産だという黒檀の長机は、一応売り物の筈なのだが、すっかりムウの文机と化していた。
カミュは読書の邪魔をしないよう無言でうなずくと、やはり売り物の椅子に腰を下ろし、ぼんやりと店内を眺めた。
悠久の時を経た古道具に取り囲まれていると、自らの存在する世界が朧に霞みだすような錯覚を覚える。
そんな夢見心地のカミュを地上へと繋ぎとめてくれているのは、静寂の中に時折混じる、頁を繰るかすかな紙擦れの音だけ。
こうして時を過ごすことは、嫌いではない。
今までも、この居心地の良さに引かれて、足繁く通ってきたものだった。
俗世のしがらみから解き放たれた世捨て人のような生き方が、ここの主人のみならずカミュの性にも合っているのかもしれなかった。
程なく、かたんと小さな音がする。
振り返ると、ムウがかけていた眼鏡を机上に置き、本を閉じていた。
「今日、シャカは?」
「古代の呪具が手に入りましたのでね、奥で憑物を落としています」
商売っ気のない二人が順調に店を続けていられるのは、このシャカの能力に負うところが大きい。
財産的価値は高いものの、妖しげな曰くつきのため敬遠される品というのは、骨董業界ではそう珍しくないという。
そんな品々をただ同然で引き取り、祓い清めた上で再び流通に乗せているのだと、以前ムウが事も無げに教えてくれたことがあった。
仕舞い込まれたままでは物も可哀想ですから、と微笑む骨董屋の姿を漠然と思い返していたカミュに、ムウは続けて穏やかな声をかけた。
「あなたが来る頃までには終えると言っていましたので、そろそろこちらへ来ると思いますよ」
「……ああ、やはり私の訪問を見透かしていたのだな」
口許に微苦笑を刻みつつ、カミュは手にした紙袋から手土産の菓子箱を取り出した。
「ここに来る途中、なぜか突然食べたくなったのだ。たしかシャカの好物だったな」
精神感応というものらしい。
無意識にシャカの意図を感じ取ってしまうカミュは、結果的にシャカの思惑通りの行動をさせられることが度々あった。
「あの人は自ら買物したりしませんからね。あなたが念を受け取めやすい方で助かります、いつも」
やはり苦笑を浮かべながら、後でお茶を淹れましょうと、ムウはカミュの手から菓子箱を受け取った。
和やかな友人との会話。ただ、今日の来訪の目的はそれだけではない。
カミュは小さく咳払いをした。
「私は今日は店の客として来たのだが」
「おや、何かお気に召しましたか」
ムウは大きな瞳を興味深げに揺らめかせた。
とはいえ、全てを理解しているかのように、常に泰然と落ち着き払っているムウのことだ。
所詮この仕草もジェスチャーにすぎず、カミュの内心の意図を既に察しているのだろう。
人とのコミュニケーションが少し苦手なカミュにとって、彼らの常人離れした鋭敏な感覚は、決して不愉快ではなく、むしろ有難いものだった。
そしてこの密かに抱く感謝の念も、口に出さずともムウにはすっかりお見通しのはずだ。
カミュはわずかに感じる照れ臭さを押し隠そうと、努めて真面目な表情を作った。
「昨日、ここで人形の家を見かけたんだが、それがちょっと入用でね」
「ああ、ドールハウスですね」
頷いたムウが、すっと指を持ち上げ、そのまま先程まで読書に使用していた机を差す。
一瞬の間の後、机上には小さな家が出現していた。
こういった能力を持つ友人がいるから、突然の小人の出現にも対応できているのかもしれない。
カミュは苦笑しつつも、目当ての家を注視した。
家の中には、ただ規模が小さいというだけで、通常の家と何ら遜色ない家具が設置されている。
さらによく目を凝らしてみると、再現されているのは家具だけではない。
本棚には書物、食器棚には食器等、小道具に至るまで精巧に作られていた。
ミロが生活するために、ちょうどよい大きさ。
彼との共同生活を始めるにあたり、偶然見かけたこの小さな家が、ふと脳裏を過ぎった。
その自分の着想の正しさに満足しながら、カミュは視線を家からムウへと移した。
「そう、これ。買いたいんだが、いくら位するのだろうか」
「高いですよ」
悪戯っぽく微笑んだムウが耳元で囁く金額に、カミュは瞳を見張った。
「冗談……」
「……ではありません。そもそもこれは貴族の命で作られたものですからね。使用されている材料は贅を尽くしたものですし、熟練した職人にしかなしえない精緻な細工は芸術の域に達していますから」
「そうか……」
予想以上の高値に出鼻を挫かれ、困惑したカミュは顎に指をかけて考え込んだ。
と、そのとき、背後からかけられた静かな声が、それ以上の思考を妨げる。
「……また面妖な客だな」
「ひどい物言いだな、シャカ」
毎度のこととはいえ、傍若無人な言われように苦笑するしかないカミュに、もう一人の店主は音もなく近づいてきた。
特殊な能力をもつ代償か、彼は常に瞳を閉ざしているのだが、その足取りに危ぶむべきところはいささかもない。
「君ではない。君の連れだ」
「……さすがだな。もうわかるのか」
微笑んだカミュは、視線を床に下ろすと、出ておいでと虚空に声をかけた。
ムウとシャカが見守る中、カミュの上着のポケットがもぞもぞと動き出す。
やがて、ひょこりと金髪の小人が顔を覗かせた。はるか上方から注がれる視線に怯むこともなく、三人の顔を検分するように見上げてくる。
「君たちがくれた蠍にいたんだ。名はミロというらしい」
差し出した手に飛び乗ってきたミロを目線に掲げ、カミュは小さく笑った。
「ミロ、こちらはムウとシャカ。私の友人だ」
「うわっ、腹立つ! 紹介の仕方が俺のときと全然違うじゃん」
頬を膨らませて見上げてくるミロは、本当に怒っているようだった。
もし彼が小人でなかったら、この怒りに満ちた蒼い視線を、カミュは受け止めかねたかもしれない。
そう思わせるほど鋭い瞳で傲然とねめつけられ、途方に暮れたカミュはおずおずと問い返した。
「……では、どう言えばよいのだ」
「俺のことも友人って言ってよ」
「……新しい友人のミロだ。……これで満足か?」
「うん!」
途端に機嫌を直し得意げな笑みを浮かべたミロと、小人に振り回されている自分の取り合わせは、彼らの目にどう映っているのだろう。
不安に駆られたカミュに追い討ちをかけるように、ムウは胡乱な視線を浴びせつつ一言呟いた。
「腹話術漫才でも始める気ですか?」
「違うっ!」
声を揃えて否定する二人の客に、シャカが止めを刺す。
「前言を撤回しよう。カミュ、やはり君も面妖だ」
深く賛同するように頷くムウを視界の端に捉えたカミュは、がっくりと肩を落とした。
立ち直るには、しばらく時間が必要なようだった。