無憂宮
 暗闇には、慣れていた。
 蠍像に封印されている間は、長い眠りについているのと同じだ。
 外部の様子は全くわからず、ただ漆黒の闇に閉ざされた静寂の中、機が満つるのを待ち続けるのみ。
 今、自分を取り巻く世界もそれと同様に暗いのだが、ここは現実界だという証に、空気にかすかに人の気配が混じっている。
 久々に感じる人の息づく気配が、訳もなく嬉しい。
 ずっと耳の痛くなるような沈黙の中にいたのだから、当然かもしれなかった。
 さすがに最近はこの状況に慣れてしまったのだろう。
 こうして外に出られる幸運と、奇態な状況に陥った我が身の不運とを秤にかけることも、もうなくなってきた。
 それでも封印当初は、孤独に飲み込まれ我が身の輪郭がぼやけていくような恐怖に、喉が嗄れるほど悲鳴を上げ続けたこともあったのだ。
 どんなに叫んでも応えがないことを悟り諦観に達するまで、一世紀程も要しただろうか。
 持ち前の楽観主義が幸いしてか、次第に過去の記憶は朧に霞み、次の開放を楽しみに眠りにつくことができるようになった。
 とはいえ、召喚はいつも突然だ。
 久々に外界に出ると、多かれ少なかれ現状認識に戸惑うのは否めない。
 思いもかけず封印を解いたことで、ミロ以上に混乱している人物が目の前にいるのだから、なおさらだ。
 突然小人が出現するのだ、驚くなと言う方が無理なこともわかってはいるのだが、それでもミロにとっては苦痛に満ちた通過儀礼だ。
 自分を呼び出した相手を落ち着かせるのに苦労し、このまま像に戻りたいと思うのも、いつものことだった。
 もっとも、幸い今回は、前回の現出からそれほど時間が経っていないらしい。
 文化や習慣も、自分に馴染みがある国のようだ。
 それなら世界に順応するのも楽だろう。
 おまけに、今回の主人ときたら……。
 ミロはしげしげと新しい主人をみつめた。
 広いベッドの片隅で、カミュはすやすやと眠っていた。
 かすかに綻んだ口元から漏れる規則正しい寝息が、その眠りの深さを教えてくれる。
 どうやら彼には、小人の存在も睡眠障害をもたらすほどの驚きには値しないらしい。
 一通りミロの話を聞くと、カミュはそれ以上何も訊かなかった。
 これからどうやって小さなミロの世話をしたらよいのかと、しばらく思案にくれていたが、ただそれだけ。
 まるで、そこにいるのは迷い込んできた仔犬であるとでも思っているのか、不条理な現実をいともやすやすと受け入れてしまったのだ。
 不思議な奴だ。
 こんなにもあっけなくミロの存在を受容してくれる人物は、長い経験の中でもそうそうなかった。
 そして、ミロを人間に戻すことを自分の願いにしようと言ってくれる人も。
 それは、カミュが豪胆な人物だという証拠ではあるまい。
 おそらく、現実感応力が麻痺しているのだ。
 どこか宙を漂うような心もとない世界に閉じこもって、自分を取り巻く現実から目を背けているために。
 その理由は、彼の唯一の願いが期せずして教えてくれた。
 ミロはちらりとベッドサイドのテーブルに目を遣った。
 そこにあるのは、栞の挟まれた分厚い本と、伏せられた写真立て。
 ミロが指を鳴らすと、写真立ては独りでにゆらりと起き上がった。
 その中には、カミュがいた。そして、カミュの傍に、もう一人。
 穏やかに微笑む理知的な瞳の青年が誰か、隣に写るカミュの幸福感に包まれた笑顔を見ればわかる。
 これが、カミュの現実逃避の理由。
 今、こうしてカミュがベッドの隅に小さくなって眠っているのも、そのためだろう。
 腕を伸ばしても共寝する相手に届かないことが怖いのだ。
 だから、殊更に端に寄って、窮屈そうに眠ることしかできない。
 恋人の死という現実からできるだけ遠ざかるために、思い出にたゆたうために、膝を抱えた胎児のように、小さく身を丸めて。
 想いの深さをまざまざと見せ付けられたミロは、写真の中でしかもう会うことのない人物に視線を注いだ。
 高みから全てを見通しているような、落ち着いた藍の瞳。強固な意志を感じさせる凛とした風貌。
 そしてその近寄りがたいまでの清冽な印象を、かすかに口許に漂う優美な微笑が和らげていた。
 カミュが愛した人は、ミロが見ても惚れ惚れするほど、いい男、だった。
 「……ま、俺ほどじゃないけど」
 長きに渡る封印でも奪われなかった負けず嫌いの性質が、むくむくと湧き上がって来る。
 わずかばかりの自嘲に、ミロは口の端を持ち上げた。
 サガを生き返らせて……。
 あの真剣な紅い瞳に応えてやることができなかった。
 それが、悔しい。
 ミロはもう一度写真の中のカミュをみつめた。
 この短い時間でミロが観察していた新しいご主人様は、胸が締め付けられるようなどこか寂しげな微笑しか見せない人だった。
 長く病床にあり自らの死期を悟った人間がよく浮かべる、周囲に気を遣わせまいとしての、少し無理を感じさせる笑み。
 それなのに、写真の中のカミュは、全く違っていた。
 優しさ、充足感、安らぎ、慈しみ……。
 そういった全ての柔和な感情が凝縮した、見る者もつい目を細めてしまうような幸福な笑顔が、そこにはあった。
 陽だまりでごろごろと喉を鳴らしている猫にも似た、愛されることの心地よさに満たされた笑顔。
 もし、ミロが願いを叶えてやったら、カミュは再びこんな表情を見せてくれるのだろうか。
 何の憂いも無い至福の笑みを、もう一度取り戻してくれるのだろうか。
 ミロは眠るカミュの枕元に、とことこと歩み寄った。
 「……生身のあんたがこうやって笑うとこ、見てみたいな」
 印象的な紅い瞳は瞼に隠されているから、今なら素直に心情を吐露できる。
 「それが、今回の俺の報酬かな。だから、早く願いごと、みつけてくれよ」
 夢の中にいるカミュには、ミロの声は届いていないだろう。
 それでも、一方的に宣告することで、ミロは満足した。
 妙に晴れやかな気分と共に、ミロはカミュの寝顔の傍に横たわった。
 いつもと変わらぬ暗闇の中。
 ただ、今はその世界に、人の温もりを感じる。
 たったそれだけのことが無性に嬉しくて、ミロはうっとりと口許を緩めた。
 そして、幸せそうに笑っているカミュに夢の中で出会うことを期待しながら、静かに目を閉じた。

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