無憂宮
雪の女王


 雪の女王だ。
 新雪のように透き通った真っ白い肌に、鮮烈な色と裏腹に冷たく冴えた瞳が凍りつきそうな視線を放つ。
 これが、彼の第一印象。


 ミロに紹介され初めてカミュに会ったアイオリアは、口をあんぐりと開けてしばらくぽかんと呆けていた。
 かつて、ミロは妖精に出会ったと興奮して語っていた。
 紅い瞳と紅い髪の、とても綺麗な妖精だったと。
 夢でもみていたのだろうと、その言葉を全く信じていなかったアイオリアだが、その認識を根底から覆された。
 目の前にいた水瓶座は、まさにミロが拙い語彙力で必死に説明していたとおりの姿だったのだ。
 自分たちと同じ簡素な麻の服を纏っているはずなのに、自分たちと同じ歳の子供のはずなのに、まるで別世界の住人のようで。
 言葉もなく、ただ、見惚れた。
 しかし、その沈黙はカミュにとって不快なものだったらしい。
 しばらくアイオリアの凝視を真っ向から受け止めていたカミュは、やがてそっぽを向くと何も言わずに立ち去っていってしまったのだ。
 後で兄に聞いたところによると、聖域に来る前のカミュは、珍しい髪と瞳の色と潜在的な氷の小宇宙の影響で、孤立した存在だったのだという。
 悪気は無かったにしろ、アイオリアの反応に、カミュはかつての不愉快な記憶を呼び覚ましたのだろう。
 結果として、アイオリアはミロと同じような友誼を結ぶには、もう少し時間を必要とさせられることとなってしまった。
 初対面の不躾な振る舞いを謝ろうとしても、近づくことすら許されない。
 ミロと二人のときには微笑みを漂わせている口許は、アイオリアがその輪に入ろうとすると、瞬時に無表情に引き締まってしまう。
 警戒心に溢れた紅い瞳が、氷のような一瞥を投げかけてくる。
 その姿は、童話の雪の女王を想起させて、ますますアイオリアは萎縮した。
 カミュは、苦手だった。


 闘技場でアイオロスによる訓練という名の遊びを終えた後、三人は十二宮へ帰ろうと足を向けていた。
 と、アイオリアの身体がわずかに強張り、兄の影を踏もうとするかのように、突然足取りが鈍くなった。
 自分の背に隠れようとするアイオリアを不審気に見下ろしていたアイオロスの耳に、ミロの嬉しそうな声が飛び込んでくる。
 「あ、カミュ! どこに行くの?」
 アイオリアの挙動不審な行動の原因は、今まさに十二宮から出てこようとしていたカミュだった。
 はしゃいで駆け寄るミロが、花の周りに纏わりつく蝶か何かのように見える。
 最初に二人の姿をそう喩えたのはサガだったか。
 彼ら二人の静と動の落差が激しいことも、互いに相手を必要としていることも、その比喩の裏付けに至極納得した記憶がある。
 しかし、今日の花は随分素っ気無い。
 「図書館」
 ちらっとミロに顔を向けて、カミュが一言だけ答えるのが聞こえた。
 ミロが近づいても歩く速度を緩めなかったカミュも、アイオロスの傍まで来ると流石に足を止めて軽く会釈する。
 とはいえ、その表情は相変わらず氷の仮面に覆われていた。
 ミロやサガと一緒にいるときのカミュは、それほど無愛想ではない。
 時には傍で見ていて微笑ましくなるほど可愛らしい笑顔を見せてくれたりもする。
 しかし、アイオロスの後ろに潜むアイオリアの存在が、カミュを人形のような無表情に変えていた。
 心を許していない人間の存在は、これほどまでにカミュを緊張させるのだ。
 ささやかな行き違いは、なかなか根強い禍根を残しているらしい。
 とはいえ、アイオロスにはその解消に尽力する気はさらさらなかった。
 幼いとはいえ、対等な人格同士の諍いだ。
 その解法も、自分たちで見つけ出さなくては意味が無い。
 ただでさえ聖域に兄がいるという特殊な背景を持つアイオリアが、その立場に甘えるようなことはあってはならない。
 自分たち年長者は、彼らだけでは手に負えないという結論に達したとき、頼りにされる存在であればよいのだ。
 それでも、きっかけくらいは作ってやるのが、兄としてのささやかな温情。
 アイオロスはアイオリアの頭をくしゃくしゃっと撫で回すと、にっと笑いかけた。
 「おお、おまえらも行って来い。たまには本も読まないとサガに怒られるぞ」
 「そういうお兄ちゃんだって、本読まないじゃん」
 口を尖らせて反論する弟の鋭い指摘を、アイオロスは笑顔でさらりとかわした。
 「俺だっておまえら位の時には、たくさん本読んださ」
 その真否は、共に子供時代を過ごしたサガにしかわかるまい。
 不満そうだが、歳の離れた兄に逆らえないアイオリアは、助けを求めるようにミロの顔を見た。
 ミロは悪戯っぽく人差し指で鼻の下をこすりつつ笑った。
 「カミュが行くなら、僕も行く」
 ちらりと見上げてくるカミュの内心はわからないが、とりあえずカミュもその提案を拒絶はしなかった。
 「じゃ、行って来いや」
 アイオロスは笑顔と共に、アイオリアの背中をカミュに向かって押し出した。
 掌の下に、わずかな抵抗が躊躇いがちに伝わってくる。
 アイオロスはわざと気づかないふりをして、その反作用を破壊するだけの力を手に込めた。


 黄金聖闘士は教皇の間に付設されている書庫にも出入りできるのだが、そこには子供向けの本はない。
 そのためカミュは聖闘士候補生も出入りする通常の図書館に通っているのだという。
 「でも、図書館を利用するには登録しなくちゃいけないんだよ」
 あまり机に向かってじっとしていることが得意ではないアイオリアとミロにとっては、図書館はあまり縁の無い場所だった。
 それでも修行地が聖域だったアイオリアは、ミロよりも事情に通じている。
 得意そうに知識を披露するアイオリアに、ミロは目を丸くした。
 「え、そうなの? アイオリアはもう登録した?」
 「うん、ずっとずっと前に。それから一回も行ったことないけど」
 楽しそうに語らうアイオリアとミロの傍らを、カミュは無言のまま歩んでいた。
 真ん中にミロを挟んでいるから、この三人の取り合わせもそれほど気詰まりではない。
 ミロ越しにちらりとカミュの様子を窺ったアイオリアは、ひそかに安堵の息をついていた。
 真っ直ぐ前を見て歩くカミュは、傍らで交わされる会話を何億光年も彼方のものとして、ただ耳を通過させているだけなのかもしれない。
 兄といいミロといい、アイオリアの周囲にいるのは感情表現が素直な人間ばかりだ。
 何を考えているのかさっぱりわからないカミュのようなタイプは初めてで、どう対応すればよいものか、アイオリアには皆目見当もつかなかった。
 「じゃあ、登録してないのは僕だけか」
 しばらく考え込んでいたミロは、登録をしに先に行く、と言い捨てると、二人の返事も聞かずに駆け出していった。
 跳ねるように走り去っていくミロの背中は、呆気にとられたアイオリアの見守る中、瞬く間に小さくなっていく。
 取り残されたアイオリアは、内心の混乱を必死で押し隠しつつ、横目でカミュを盗み見た。
 カミュは従前と変わらぬ無表情だった。
 「君も、先に行けばいい」
 視線を前方に据えたまま、感情の無い言葉がぽつりと落とされた。
 一瞬、誘惑に駆られる。
 そうしたのなら、どんなに気が楽だろう。
 しかし、素直にその言に従うのは、露骨にカミュを避けていることになる。
 それは、よくない。
 是か非か。
 子供らしい二極化した天秤は、本心とは離れたところで一方の結論に大きく傾いた。
 渋々ながらも諦めの心境に達したアイオリアは、カミュと並んで歩いていくことにした。
 相変わらず、会話は、無い。
 一体何を話せばいいのか。
 ミロはいつも何を話しているのだろう。
 カミュの隣にいるミロは、とても楽しそうなのに。
 沈黙の中に置いてきぼりにされてしまった気がして、アイオリアはマイペースなミロの笑顔を恨めしく思い起こしていた。


 無言の行程が苦痛になり始めた頃、ようやく図書館にたどり着く。
 思わず安堵の息をつくアイオリアの鼓膜がかすかに震えた。
 原因は、カミュの小声の呟きだ。
 「君は僕から離れていたほうがいい。不愉快な思いをするかもしれないから」
 カミュにしては長い台詞だが、意味がさっぱりつかめない。
 アイオリアは怪訝な顔で見つめ返したが、カミュはそれ以上何も語ろうとしなかった。
 秀麗な横顔は、依然として感情の欠片も見せないまま。
 相変わらずの無愛想ぶりには、もうすっかり慣れてしまったとはいえ、ため息がでる。
 今後、カミュと二人きりになることはないだろうという推定を確信にまで強め、アイオリアは扉に手をかけた。
 装飾的な重い扉を押し開くと、薄暗い館内に身を滑り込ませる。
 外の明るい陽射しに慣れてしまった目が、懸命に順応しようと瞳孔を拡縮させる。
 しばらくぼやけていた視界が明瞭になるのを待ち、アイオリアは周囲を見渡した。
 聖域が信奉する女神は、知恵の女神でもある。
 充実した図書館はその証だと、かつてサガが誇らしげに語っていた。
 その言葉は、真実だったらしい。
 読書嫌いな子供としてはそれだけで身震いがするような空間が目の前に広がっていた。
 吹き抜けの広間の中央に並んだ机では、神官の卵たちが額をつき合わせて分厚い本に取り組んでいる。
 その周囲を取り囲むように、ぎっしりと本の詰め込まれた本棚が整然と並んでいたのだ。
 二階の回廊の手摺越しにも、やはり多数の書架が直立しているのが見えた。
 端の棚を倒したら、派手なドミノになりそうだ。
 本の背表紙を見ただけでげんなりしたアイオリアは、現実逃避をするように無益な空想を巡らせた。
 もっとも、それでは埒が明かないことぐらい、重々承知だ。
 先に行ったミロと合流すれば、この威圧感のある空気からも、カミュとの気まずい沈黙からも救われるはずだった。
 しかし、あの豊かな金髪はどこにも見当たらない。
 きょときょとと首を巡らすアイオリアの傍らを、紅い風がすり抜けていく。
 無言のまま奥へと進むカミュは、迷うことなく階段へと足を向けていた。
 図書館の構造すら理解していないアイオリアとは異なり、目的の本がどこにあるのか、完全に把握しているのだろう。
 と、静かだった館内がかすかにざわめく。
 不審に駆られたアイオリアは、かすかに身を強張らせた。
 自分たちが黄金聖闘士だということを、ここにいる雑兵や候補生達は知らないはずだ。
 すなわち、このかすかに走る動揺は、黄金聖闘士の来館が珍しいからという理由ではない。
 何が、起こったのだろう。
 訳もわからないまま、アイオリアはカミュの後を追いかけようとした。

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