突然の怒声が雑然としたノイズの充満する空気を切り裂いたのは、その時だった。
「もう一回言ってみろ!」
ミロの声だ。
振り向いた先には、自分よりもはるかに大きな少年に食ってかかるミロがいた。
鋭く響く声を聞くまでも無く、硬く強張った表情を見るまでも無く、ミロの身体中に押さえきれない憤懣が渦巻いているのがわかる。
ミロの喧嘩相手は嘲るように鼻を鳴らした。
自分の胸ほどまでしかない小さな子供を侮っているに違いない。
「気持ち悪いって言ったんだよ。あんな赤い髪」
吐き捨てるように投げつけられた言葉に、ミロの髪がざわりと逆立つのが見えた気がした。
燃え上がる小宇宙が陽炎のように揺らめきながら、ミロの身体を覆い尽くす。
まだ小宇宙が目覚めていないここにいる候補生たちにはわかるまい。
ミロの怒りが、一気に頂点に達しつつあることを。
激情の奔流が、今まさに生贄を求めて迸らんとしていることを。
「ミロ、止せ! そんな奴に構うな」
アイオリアは叫んだ。
怒れる彼を引き離すべく、必死で駆け寄る。
しかし、激しい怒りに我を忘れたミロに、制止の声は届かない。
アイオリアの目は、ミロの爪が赤く染まりゆくさまを捉えた。
自分だけが時間軸から放り出されたように、動きを止めた世界をひた走る。
眼前の光景が、信じられない。
信じたくない。
こんなところで、満足に防御もできない候補生を相手に小宇宙を発動させたら、死人がでる。
ミロの腕が音も無く持ち上がった。
尖った爪の先が、攻撃目標に精確に照準を合わせる。
間に合わない。
アイオリアは床を蹴った。
身体ごと飛びつき、思い切りミロを突き飛ばす。
もつれ合った体が激しく床に激突する音。
衝撃で舞い上がる埃。
そして、静寂。
全ては一瞬の出来事だったはずなのに、とても長い悪夢を見ていたようだ。
喉がからからに渇き、激しい動悸が頭痛を起こさせるほどに脳内に響く。
アイオリアは、ぎゅっと閉じていた目を片方だけ、ほんの少し開けてみた。
床に押し倒された衝撃で、ようやく我に返ったか。
切り取られたように狭い視界の中で、真っ青な顔をしたミロが右手の人差し指を見つめていた。
既に攻撃態勢は解かれ、いつもの短い爪に戻っている。
ただ、小宇宙の名残の煙のようなものが、不気味にその指を取り巻いていた。
「やっちゃった……」
上擦ったミロの声に、アイオリアはごくりと唾を飲み込んだ。
何を、やったのか。
わかりたくもないが、予想される結末は一つしかない。
惨状を覚悟したアイオリアの背筋が、すっと氷の手に撫でられた。
恐怖に震えた身体は、関節が異様に軋み、ぜんまい仕掛けの人形のようにぎくしゃくとした動きしかできない。
それでも、現実と直面することを拒もうとする全身の筋肉に無理やり言うことを聞かせ、アイオリアはおそるおそる背後を振り返った。
呆然と床に座り込んだ少年が、がくがくと小刻みな音を立て、全身を震わせていた。
無傷だ。
だが、そこにはもう一人。
カミュがいた。
なまじ遠くにいたぶん、迷うことなく光速移動し、対峙する二人に割り込んだのだろう。
幽鬼のように立ち尽くしていたカミュは、気だるげに片手を持ち上げると、反対側の肩に添えた。
押し当てた指の間から、じわりと真紅の血が流れ落ちてくる。
カミュの髪と同じ色。
鮮血に染まるカミュに、アイオリアは眼を奪われた。
赤い血、なんだ。
やっぱり、人間、なんだ。
妙に現実感を欠く眼の前の情景に、思考も停止したらしい。
場違いも甚だしい感懐がぼんやりと心を過ぎった。
そうして放心したアイオリアの傍らで、空気が動く。
慌てて立ち上がったミロが、カミュに駆け寄っていったのだ。
「カミュ、カミュ、ごめん。大丈夫? 痛くない?」
「痛いに決まってる」
カミュは苦痛に顔をしかめながらも、小さな声で返事をした。
返事ができるなら、それほど重傷というわけではあるまい。
驚きと、後悔と、安堵とが、一気に押し寄せたか。
ミロがぼろぼろと大粒の涙をこぼし始めた。
先程までの酷薄な処刑人の面影など微塵も感じさせない、ただの無邪気な幼い子供に戻って、ミロはしゃくりあげていた。
カミュはミロを宥めるように、口許にかすかな笑みを漂わせた。
どちらが被害者なのかわからないが、結局泣く子には勝てないということだろう。
「とりあえず、シャカのところに行くから」
「ふぇ、なんでシャカ?」
「何とかしてくれそうだろ。サガには心配かけたくないし」
カミュは血を滴らせたまま歩き出した。
泣きじゃくるミロが、ひたすら謝りながら後に続く。
その後ろ姿を見送ったアイオリアは、水を打ったように静まり返っている周囲を見渡した。
館内の全ての目が、驚愕と恐怖を湛えてこちらを向いている。
……僕が悪いんじゃないんだけど。
注視されている自分の状況に、もうすっかり癖になってしまった感のあるため息をつくと、アイオリアは逃げるように二人の後を追いかけた。
図書館を出たところで、三人は今最も会いたくない人物に出くわし、一様に顔を引きつらせた。
ミロの小宇宙の発動に気づいて駆けつけた、サガとアイオロスだ。
ミロの陰に隠れようとしたカミュは、サガに捕まった。
珍しく怖い顔をしたサガは、有無を言わさずカミュの傷に手をかざした。
青白い光が掌から迸り、見る見るうちに傷口を塞いでいく。
一方、アイオロスは両腕を伸ばし、逃げ出そうとするミロとアイオリアの首根っこを捕まえた。
そのまま、軽々と子猫のように持ち上げると、火花が出るほど二人の頭を打ち合わせる。
「……なんで僕まで?」
「一緒にいて止められなかったんだから、同罪」
ぐらぐらする頭を抱え半べそをかくアイオリアに、アイオロスは重々しく宣告した。
このミロの暴走の結果、彼らは以後図書館に出入り禁止になったのは言うまでもない。
しかし、それだけではなかった。
サガとアイオロスの協議の結果、三人は学問所の机拭きを命じられたのだ。
図書館と同様、学問所は神職の管轄下にある。
騒ぎを起こしたせめてもの贖罪として神官へ配慮した結果であることは、子供の彼らでもわかった。
ただ、罰は罰。
学問所に入った彼らは、期せずして同時に肩を落とした。
そこにある机は、三人がかりでも掃除に一日を要するだけの数を誇っていたのだ。
それでも、何もしないことには始まらない。
「……とりあえず、手分けしてやるか」
切り替えの早いミロの言葉に、三人はようやく行動を開始した。
何事にも楽しさを見出そうとするミロの提案で、その作業の速さを競うことになったのだが、少し不公平かもしれない。
アイオリアは、割り当てられた机を半分ほど拭き終わったところでそう思った。
こんな単純作業にも、性格の違いは如実に現れるのだ。
ミロは既にあらかたの机を拭き終わっているが、その作業はあまりに大雑把だった。
さっと撫でた程度で次の机に移る様子は、もし監督者がいたならばやり直しを命じられること必至だろう。
それにひきかえ、カミュは丁寧すぎる。
些細な汚れも擦り落とそうと躍起になっているせいか、異様なほど時間がかかっているのだ。
あれじゃ、今日中に終わらないよ。
アイオリアは視線を横に移した。
六列に並んだ机の、中央の二列はカミュの担当。
そのうちの一脚は、まるで嫌がらせのように汚れていた。
また、ため息。
カミュが終わらないと、自分も帰れないからな。
誰が聞いている訳でもないのに内心で弁解すると、アイオリアはカミュの列の机を拭き始めた。
天板にこびりついた汚れを、削り取るように落としていく。
その作業に手が少し疲れた頃、ふと視線を感じたアイオリアは顔を上げた。
視線の主は、本来ならこの机を拭く予定のカミュだった。
人の領域で何をしているのだと詰問するように、無言のままじっとみつめてくる。
その紅い凝視に耐えかねて、慌てたアイオリアは必死に弁明した。
「あ、あの、この机、あんまり汚かったから……」
目を、疑った。
狼狽するアイオリアの様子がよほど滑稽だったのか。
真一文字に引き結ばれていたカミュの口の端が、ほんの少し上に湾曲した。
「……ありがとう」
小さな声には、紛れもない感謝の響きがこもっていた。
錯覚ではなく、本当にカミュはアイオリアに笑顔を向けてくれたのだ。
「……う、うん……」
口の中でもごもごと言葉にならない返事をすると、アイオリアは下を向いた。
そのまま、それまで以上の勢いで、天板を擦り始める。
机が綺麗になるにつれて、心中のわだかまりも解けていくようだった。
下を向いたまま、口許が自然と緩む。
間違っていた。
カミュは、雪の女王じゃなかった。
悪魔の鏡の破片が刺さった少年の方だったんだ。
少女の涙で鏡が溶けて、氷の心も融けたんだ。
アイオリアは自分の思いつきに笑った。
それじゃ、ミロが少女ってことになる。
「何一人で笑ってんだよ」
いつのまにか近くに来ていたミロが、不審そうに声をかける。
アイオリアは急いで笑みを収め、しかつめらしい顔を作った。
何を考えていたかをミロが知ったなら、今度は自分が紅い爪の被害者になりかねない。
「別に」
「ヘンなの。ま、いいや。僕のは全部終わったから、カミュの分も手伝うね」
後半の台詞は、前方のカミュに向かって叫ばれた。
それに答えるように、微笑んだカミュがうなずく。
ミロの台詞にほんの少しだけ引っかかるものを感じたアイオリアは、後ろを振り返った。
アイオリアに割り当てられた机の列は、まだまだ続く。
助けが必要なのは、カミュだけではないはずなのだが。
「え、僕の分は手伝ってくれないの?」
「だってリア、カミュの机拭いてるじゃん。余裕あるんだろ?」
「そんな…!」
アイオリアの大げさな悲鳴は、ミロの高らかな笑い声にかき消された。
二人のやりとりに、カミュも小さな笑みを浮かべていた。
楽しげなミロとカミュにちらりと視線を走らせると、アイオリアはつられたように苦笑を漏らした。
雪の女王は、もういなかった。
「もう一回言ってみろ!」
ミロの声だ。
振り向いた先には、自分よりもはるかに大きな少年に食ってかかるミロがいた。
鋭く響く声を聞くまでも無く、硬く強張った表情を見るまでも無く、ミロの身体中に押さえきれない憤懣が渦巻いているのがわかる。
ミロの喧嘩相手は嘲るように鼻を鳴らした。
自分の胸ほどまでしかない小さな子供を侮っているに違いない。
「気持ち悪いって言ったんだよ。あんな赤い髪」
吐き捨てるように投げつけられた言葉に、ミロの髪がざわりと逆立つのが見えた気がした。
燃え上がる小宇宙が陽炎のように揺らめきながら、ミロの身体を覆い尽くす。
まだ小宇宙が目覚めていないここにいる候補生たちにはわかるまい。
ミロの怒りが、一気に頂点に達しつつあることを。
激情の奔流が、今まさに生贄を求めて迸らんとしていることを。
「ミロ、止せ! そんな奴に構うな」
アイオリアは叫んだ。
怒れる彼を引き離すべく、必死で駆け寄る。
しかし、激しい怒りに我を忘れたミロに、制止の声は届かない。
アイオリアの目は、ミロの爪が赤く染まりゆくさまを捉えた。
自分だけが時間軸から放り出されたように、動きを止めた世界をひた走る。
眼前の光景が、信じられない。
信じたくない。
こんなところで、満足に防御もできない候補生を相手に小宇宙を発動させたら、死人がでる。
ミロの腕が音も無く持ち上がった。
尖った爪の先が、攻撃目標に精確に照準を合わせる。
間に合わない。
アイオリアは床を蹴った。
身体ごと飛びつき、思い切りミロを突き飛ばす。
もつれ合った体が激しく床に激突する音。
衝撃で舞い上がる埃。
そして、静寂。
全ては一瞬の出来事だったはずなのに、とても長い悪夢を見ていたようだ。
喉がからからに渇き、激しい動悸が頭痛を起こさせるほどに脳内に響く。
アイオリアは、ぎゅっと閉じていた目を片方だけ、ほんの少し開けてみた。
床に押し倒された衝撃で、ようやく我に返ったか。
切り取られたように狭い視界の中で、真っ青な顔をしたミロが右手の人差し指を見つめていた。
既に攻撃態勢は解かれ、いつもの短い爪に戻っている。
ただ、小宇宙の名残の煙のようなものが、不気味にその指を取り巻いていた。
「やっちゃった……」
上擦ったミロの声に、アイオリアはごくりと唾を飲み込んだ。
何を、やったのか。
わかりたくもないが、予想される結末は一つしかない。
惨状を覚悟したアイオリアの背筋が、すっと氷の手に撫でられた。
恐怖に震えた身体は、関節が異様に軋み、ぜんまい仕掛けの人形のようにぎくしゃくとした動きしかできない。
それでも、現実と直面することを拒もうとする全身の筋肉に無理やり言うことを聞かせ、アイオリアはおそるおそる背後を振り返った。
呆然と床に座り込んだ少年が、がくがくと小刻みな音を立て、全身を震わせていた。
無傷だ。
だが、そこにはもう一人。
カミュがいた。
なまじ遠くにいたぶん、迷うことなく光速移動し、対峙する二人に割り込んだのだろう。
幽鬼のように立ち尽くしていたカミュは、気だるげに片手を持ち上げると、反対側の肩に添えた。
押し当てた指の間から、じわりと真紅の血が流れ落ちてくる。
カミュの髪と同じ色。
鮮血に染まるカミュに、アイオリアは眼を奪われた。
赤い血、なんだ。
やっぱり、人間、なんだ。
妙に現実感を欠く眼の前の情景に、思考も停止したらしい。
場違いも甚だしい感懐がぼんやりと心を過ぎった。
そうして放心したアイオリアの傍らで、空気が動く。
慌てて立ち上がったミロが、カミュに駆け寄っていったのだ。
「カミュ、カミュ、ごめん。大丈夫? 痛くない?」
「痛いに決まってる」
カミュは苦痛に顔をしかめながらも、小さな声で返事をした。
返事ができるなら、それほど重傷というわけではあるまい。
驚きと、後悔と、安堵とが、一気に押し寄せたか。
ミロがぼろぼろと大粒の涙をこぼし始めた。
先程までの酷薄な処刑人の面影など微塵も感じさせない、ただの無邪気な幼い子供に戻って、ミロはしゃくりあげていた。
カミュはミロを宥めるように、口許にかすかな笑みを漂わせた。
どちらが被害者なのかわからないが、結局泣く子には勝てないということだろう。
「とりあえず、シャカのところに行くから」
「ふぇ、なんでシャカ?」
「何とかしてくれそうだろ。サガには心配かけたくないし」
カミュは血を滴らせたまま歩き出した。
泣きじゃくるミロが、ひたすら謝りながら後に続く。
その後ろ姿を見送ったアイオリアは、水を打ったように静まり返っている周囲を見渡した。
館内の全ての目が、驚愕と恐怖を湛えてこちらを向いている。
……僕が悪いんじゃないんだけど。
注視されている自分の状況に、もうすっかり癖になってしまった感のあるため息をつくと、アイオリアは逃げるように二人の後を追いかけた。
図書館を出たところで、三人は今最も会いたくない人物に出くわし、一様に顔を引きつらせた。
ミロの小宇宙の発動に気づいて駆けつけた、サガとアイオロスだ。
ミロの陰に隠れようとしたカミュは、サガに捕まった。
珍しく怖い顔をしたサガは、有無を言わさずカミュの傷に手をかざした。
青白い光が掌から迸り、見る見るうちに傷口を塞いでいく。
一方、アイオロスは両腕を伸ばし、逃げ出そうとするミロとアイオリアの首根っこを捕まえた。
そのまま、軽々と子猫のように持ち上げると、火花が出るほど二人の頭を打ち合わせる。
「……なんで僕まで?」
「一緒にいて止められなかったんだから、同罪」
ぐらぐらする頭を抱え半べそをかくアイオリアに、アイオロスは重々しく宣告した。
このミロの暴走の結果、彼らは以後図書館に出入り禁止になったのは言うまでもない。
しかし、それだけではなかった。
サガとアイオロスの協議の結果、三人は学問所の机拭きを命じられたのだ。
図書館と同様、学問所は神職の管轄下にある。
騒ぎを起こしたせめてもの贖罪として神官へ配慮した結果であることは、子供の彼らでもわかった。
ただ、罰は罰。
学問所に入った彼らは、期せずして同時に肩を落とした。
そこにある机は、三人がかりでも掃除に一日を要するだけの数を誇っていたのだ。
それでも、何もしないことには始まらない。
「……とりあえず、手分けしてやるか」
切り替えの早いミロの言葉に、三人はようやく行動を開始した。
何事にも楽しさを見出そうとするミロの提案で、その作業の速さを競うことになったのだが、少し不公平かもしれない。
アイオリアは、割り当てられた机を半分ほど拭き終わったところでそう思った。
こんな単純作業にも、性格の違いは如実に現れるのだ。
ミロは既にあらかたの机を拭き終わっているが、その作業はあまりに大雑把だった。
さっと撫でた程度で次の机に移る様子は、もし監督者がいたならばやり直しを命じられること必至だろう。
それにひきかえ、カミュは丁寧すぎる。
些細な汚れも擦り落とそうと躍起になっているせいか、異様なほど時間がかかっているのだ。
あれじゃ、今日中に終わらないよ。
アイオリアは視線を横に移した。
六列に並んだ机の、中央の二列はカミュの担当。
そのうちの一脚は、まるで嫌がらせのように汚れていた。
また、ため息。
カミュが終わらないと、自分も帰れないからな。
誰が聞いている訳でもないのに内心で弁解すると、アイオリアはカミュの列の机を拭き始めた。
天板にこびりついた汚れを、削り取るように落としていく。
その作業に手が少し疲れた頃、ふと視線を感じたアイオリアは顔を上げた。
視線の主は、本来ならこの机を拭く予定のカミュだった。
人の領域で何をしているのだと詰問するように、無言のままじっとみつめてくる。
その紅い凝視に耐えかねて、慌てたアイオリアは必死に弁明した。
「あ、あの、この机、あんまり汚かったから……」
目を、疑った。
狼狽するアイオリアの様子がよほど滑稽だったのか。
真一文字に引き結ばれていたカミュの口の端が、ほんの少し上に湾曲した。
「……ありがとう」
小さな声には、紛れもない感謝の響きがこもっていた。
錯覚ではなく、本当にカミュはアイオリアに笑顔を向けてくれたのだ。
「……う、うん……」
口の中でもごもごと言葉にならない返事をすると、アイオリアは下を向いた。
そのまま、それまで以上の勢いで、天板を擦り始める。
机が綺麗になるにつれて、心中のわだかまりも解けていくようだった。
下を向いたまま、口許が自然と緩む。
間違っていた。
カミュは、雪の女王じゃなかった。
悪魔の鏡の破片が刺さった少年の方だったんだ。
少女の涙で鏡が溶けて、氷の心も融けたんだ。
アイオリアは自分の思いつきに笑った。
それじゃ、ミロが少女ってことになる。
「何一人で笑ってんだよ」
いつのまにか近くに来ていたミロが、不審そうに声をかける。
アイオリアは急いで笑みを収め、しかつめらしい顔を作った。
何を考えていたかをミロが知ったなら、今度は自分が紅い爪の被害者になりかねない。
「別に」
「ヘンなの。ま、いいや。僕のは全部終わったから、カミュの分も手伝うね」
後半の台詞は、前方のカミュに向かって叫ばれた。
それに答えるように、微笑んだカミュがうなずく。
ミロの台詞にほんの少しだけ引っかかるものを感じたアイオリアは、後ろを振り返った。
アイオリアに割り当てられた机の列は、まだまだ続く。
助けが必要なのは、カミュだけではないはずなのだが。
「え、僕の分は手伝ってくれないの?」
「だってリア、カミュの机拭いてるじゃん。余裕あるんだろ?」
「そんな…!」
アイオリアの大げさな悲鳴は、ミロの高らかな笑い声にかき消された。
二人のやりとりに、カミュも小さな笑みを浮かべていた。
楽しげなミロとカミュにちらりと視線を走らせると、アイオリアはつられたように苦笑を漏らした。
雪の女王は、もういなかった。